生活思想詩の授業 ~「想像力を養う詩の創作指導に関する研究」(改題)~ 豊田龍彦

 まえがき

 本研究は,私が新治郡八郷町立(現石岡市立)林小学校在職中にまとめた教育論文「豊かな言語感覚を養う指導の在り方~詩の創作指導を通して~(4年間の継続研究から)」を出発点としている。そしてその教育実践における反省が,本研究テーマ設定の主要な動機となっている。

私が詩の魅力にとりつかれるようになったのは,茨城大学の学生であった頃からである。それ以来ことあるごとに詩を読んだり書いたりしてきた。私にとって詩を読むことは想像の世界を広げる行為であり,詩を書くことは自分の心を開放する営みであった。私は当時,そのような詩のよさを子どもたちにも味わわせたいと考えていた。念願が叶い小学校教諭となった後は,機会を捉えて児童に詩を読ませたり書かせたりしてきた。

前述の教育論文は,私が八郷町立林小学校に新規採用された1996(平成8)年度から1999(平成11)年度までの4年間の実践をもとに書いたものである。このテーマを設定した理由は,詩を書かせることで児童の言語に対する感性を養うことができるのではないかと考えていたからである。私は豊かな感性を育むことを学級経営の柱の一つにしていた。この考え方は,畑島喜久生の著書『いまこそ子どもたちに詩を』と野口芳宏の著書『感性を磨く詩歌の創作指導』とに影響を受けたものである。

この教育論文における実践内容は,松本利昭の主体的児童詩(たいなあ詩)理論を中心に詩の創作指導を行っていくというものであった。また主体的児童詩の理論と対立するものとは知らずに生活詩の方法論も部分的に取り入れていた。詩を読むことと書くことの関連性は深く追究しなかったが,詩を味わう方法を指導することも必要だと考え西郷竹彦の実践を参考に詩の授業を行った。さらに普段から詩のリズムや言葉に慣れておくことも大切だと考え,卯月啓子の「アンソロジー(名詩選)づくり」を真似しながら詩に親しませる環境づくりを継続して行った。

この4年間の研究をまとめることで様々な課題が見出された。詩の創作指導の困難さを痛感した。論文が完成しても,児童作品は依然として玉石混交であり,書ける子は書けるが書けない子は全く書けないという状態に変わりはなかったのである。この研究の問題点は,詩の創作指導の目的と意義を明確にできなかった点にある。すなわち詩を書かせることでどのような力を児童に身につけさせたいのか,児童にどのような詩を書かせたいのかということを指導者側も明確にしていなかったのである。そもそもよい詩とはどういうものか,という疑問に対し答えの出せない自分がいた。また玉石混交とは言ってもそれは私の主観によるものであり,客観的な評価ではない。詩の創作指導に関する私の興味は急激に減少した。詩の授業は必然的に読む活動に比重をかけるようになっていった。

しかしそれでも,現在に至るまで細々と詩を書かせ続けてきた理由は,国語教師としてのアイデンティティを保つためではない。児童の書いた詩を読んで,その瑞々しい感性に感激した経験があったからである。作文ではなく詩でしか表現できないものの中に,心の底から感動した経験があったからである。では感動を覚えた詩とはいったいどのようなものだったのか。今となって思えば,それはただ何々したいという欲求を書いただけの詩ではなく,生活を振り返って見たままありのままを書いた詩でもなく,児童の想像力が発揮されていた詩だったように思う。そこで,詩を書くことで身につけさせるべき能力は想像力なのではないかと次第に考えるようになっていた。

時を経て,2012(平成24)年度及び2013(平成25)年度の2年間にわたり,茨城大学大学院教育学研究科において内地留学をする機会を得た。ここで行った研修を通して,今までの実践を広い視野で振り返ることができ,自分がどのような立場にいてどのような教育実践を行ってきたかが明らかになった。教育論文「豊かな言語感覚を養う指導の在り方~詩の創作指導を通して(4年間の継続研究から)」は,目的や意義を明確にすることや研究の成果を検証する方法等に不足があったとはいえ,方向性としては間違ってはいなかったということも分かってきた。そこで,過去の実践における反省を生かしてもう一度詩の創作指導に挑戦してみたいと思ったのである。つまり児童の想像力を養うという目的を明確にして詩の創作指導を行うということである。

では想像力を養う詩の創作指導の充実に必要な前提はどのようなものがあるのだろうか。過去の実践の反省をふまえて次のような仮説を立てた。

・ 詩に親しむ環境があること

・ 詩を読む活動が充実していること

・ 普段から文章を書き慣れていること

以上の点をふまえ,本研究では「詩の環境づくり」「詩の受容指導」「日記指導」を柱に「詩の創作指導」に迫っていきたいと考えた。そして本研究の内容を次のように章立てて構成した。

 

序 章 詩の創作指導の目的と意義 

第一章 詩と想像力

第二章 詩の環境づくり

第三章 詩の受容指導

第四章 詩と日記指導

第五章 詩の創作指導

第六章 児童詩の分析(平成25年度の実践研究)

結 章 本研究の成果と課題

 

各章ごとの論述の目的は次のようになる。

序章では,詩の創作指導の目的と意義を明確にする。

第一章では,詩の創作指導と想像力の育成との関連性を考察し本研究の全体構想について述べる。

第二章では,卯月啓子の実践分析から詩に親しむための環境づくりの在り方を考察する。

第三章では,西郷竹彦の実践分析から詩の受容指導の在り方を考察する。

第四章では,日記指導の可能性を探り日記指導と詩の創作指導の関連性を考察する。 

第五章では,足立悦男「異化の詩教育学」における山際鈴子の実践分析から詩の創作指導の在り方を考察する。

第六章では,本研究で生まれた児童詩の分析を行うことを通して研究の成果を検証する。

結章では,以上をふまえ詩の創作指導の在り方についてまとめる。

 本研究の目的は,詩の創作指導を通して児童の想像力を養うことにある。最終的には,目指すべき詩の創作指導の在り方を明らかにし,未来の児童詩の在るべき姿を提案していきたいと考える。ご高覧いただき,ご批判・ご鞭撻をいただければ幸いである。

 

凡例

 本書における表記は以下によるものとする。

 1 引用文は本文に2字下げで記す。

 2 本文中に引用する場合には〈 〉内に記す。

 3 引用の際,(中略)とした場合は全て筆者(豊田)によるものとする。

 4 著者・雑誌等の刊行物は『 』内にその書名・誌名を記す。

 5 著者・雑誌等の所収論文名は「 」内に記し,その旨を明記する。

 6 特に明記しない場合の「 」内の語は,本書において特別の定義をもつ用語とする。

必要な場合にその定義等について注記する。

 7 ( )番号を付した語句・内容等について,各章末尾に一括して注記する。

  ※ なお,ネット掲載版では,構造図および末尾資料を省略した。

 

〈 目 次 〉 ※ページ数は縦書き版のものである。

まえがき                                   1

序 章 詩の創作指導の目的と意義                      7

 第一節    過去の実践の反省から                       7

 第二節    時代の要請・児童の実態から                                     8

 第三節    学習指導要領から                                              10

第一章 詩と想像力                                                        13

 第一節 詩の定義                                                        13

 第二節 詩と想像力                            14

第二章 詩の環境づくり                                                    21

 第一節 詩の環境づくりに関わる課題                                      21

 第二節 卯月啓子「アンソロジー(名詩選)作り」                          22

 第三節 まとめ                                                          25

第三章 詩の受容指導                                                      27

 第一節 詩の受容指導における現状と課題                                  27

 第二節 西郷竹彦「詩の受容指導」                                        30

 第三節 まとめ                                                          36

第四章 詩と日記指導                                                      38

 第一節 日記指導の目的と意義                                            38

 第二節 日記指導に関わる課題                                            40

 第三節 まとめ                                                          42

第五章 詩の創作指導                                                      46

 第一節 詩の創作指導における現状と課題                                  46

  1 過去の経験から見える現状と課題 47

  2 アンケート調査から見える現状と課題 48

  3 教科書教材から見える現状と課題 47

 第二節 青木幹勇「すずめ」の授業                                        52

  1 「すずめ」の授業の概要 52

  2 「すずめ」の授業の実践 53

  3 児童詩の分析 54

  4 授業実践の成果と課題 55

 第三節 弥吉菅一「日本児童詩教育の歴史的研究」                         56

  1 弥吉菅一著『日本児童詩教育の歴史的研究』の概要 57

  2 未来の児童詩教育の姿 59

 第四節 足立悦男「思想型の詩の創作指導」(山際鈴子の実践分析)          61

 第五節 まとめ                                                         68

第六章 児童詩の分析(平成25年度の実践研究)                            72

 第一節 実践の内容                                                     72

  1 詩の環境づくり 73

  2 詩の受容指導 75

  3 詩と日記指導 78

  4 詩の創作指導 80

 第二節 平成25年度大原小学校6年1組で生まれた児童詩の分析              81

  1 「すずめ」の授業から生まれた詩 81

  2 「すずめ」に触発されて書かれた詩 90

  3 日記を素材として書かれた詩 96

  4 自発的に書かれた詩 109

 第三節 卒業詩集「巣立ち」                                             118

結 章 本研究の成果と課題                                               122

 第一節    詩の環境づくり                                               124

 第二節    詩の受容指導                                                 125

 第三節    詩と日記指導                                                 126

 第四節    詩の創作指導                                                 127

 第五節    「生活思想詩」の実現を目指して                128

あとがき                                                                 131

参考・引用文献一覧                                                       135

 

 

序 章 詩の創作指導の目的と意義

 本章では,詩の創作指導の目的と意義を述べることで本研究の方向性を明らかにする。

 第一節では過去の実践の反省から見える目的と意義,第二節では時代の要請・児童の実態から見える目的と意義,第三節では学習指導要領から見える目的と意義についてそれぞれ論考を進める。

 

第一節 過去の実践の反省から

本研究が,教育論文「豊かな言語感覚を養う指導の在り方~詩の創作指導を通して~(4年間の継続研究から)」を出発点としていることは既にまえがきで述べた。その教育実践は松本利昭の主体的児童詩(たいなあ詩)理論を中心に詩の創作指導を行っていくというものであった。また一方で対立する理論とは知らずに生活詩の方法論も部分的に取り入れたものであった。

この4年間の研究をまとめることで様々な課題が見出されたが,一番の問題点は詩の創作指導の目的と意義を明確にできなかった点にある。すなわち,詩を書かせることで児童に身につけさせたい力を明確に把握できなかったのが大きな課題であった。そして言語感覚を養うことで得られる効果についての考察が足りなかった。

「豊かな言語感覚を養う」という目的を立てながら,言語感覚が豊かになった児童の姿を検証する方法が曖昧であったため,児童にどのような詩を書かせたいのかという観点を意識することも不十分であった。だから詩の創作指導の方法論を深く追究することをせず,児童一人ひとり既有の言語経験や言語に対する感性に多くを頼ってしまっていた。

しかしそれでも,児童の書いた詩を読んでその瑞々しい感性に感激した経験があった。作文ではなく詩でしか表現できないものの中に,心の底から感動した経験があったのである。ただしその時に感動を覚えた詩とは,ただ何々したいという欲求を書いただけの詩ではなく,生活を振り返って見たままありのままを書いた詩でもなく,児童の想像力が発揮されていた詩であった。そこで,詩を書くことで身につけさせるべき能力は「想像力」なのではないかと次第に考えるようになっていた。

 この教育実践の中で生まれた児童詩に次のような作品がある。

 

     空を見あげて

           林小5年 ●・●

   緑の草原にねて

   空を見た

   雲が動いていった

   ぼくも動いているようだった

   あの雲の上にのって

   どこかへいきたい

   あの雲へのったら

   どんなに気持ちいいんだろう

 

この詩は,私の教育実践3年目に八郷町教育研究会国語研究部編『山根の子』(1)の巻頭詩として採用された詩であり,筆者にとっては記念碑的な作品である。この詩は,外遊びを通して自然現象から自分なりの発見をし,その発見の感動を言葉で表現するという活動を通して生まれた詩である。この詩を書いた児童は国語を苦手としている児童であったが,年度の終わりには詩を書くことが好きだと答える児童に変貌していた。その背景として,「主体的児童詩(たいなあ詩)」の手法(何々したいなあという気持ちを素直に表現する)で詩を書いた経験があり,生活詩の手法(生活を振り返って心に強く感じたことを書く。見たまま書く。ありのままに書く。)も学んでいたということが挙げられる。また学級では卯月啓子の「アンソロジー(名詩選)づくり」を参考に年間を通して詩に親しむ活動を継続して行っていた。さらに西郷竹彦実践を参考にした「かぼちゃのつるが」の授業を受けることを通して詩の技法の一つである「比喩」や「反復」等も学んでいた。「主体的児童詩」「生活詩」については第五章第三節,卯月啓子の実践については第二章第二節,西郷竹彦の実践については第三章第二節で詳述する。だからこの児童は詩のリズムや心を自然に身につけていたとも推測できるし,詩の味わい方や書き方についての知識があったとも考えられる。

 この作品は八郷町の教育研究会に評価された詩であり,前述の教育実践における到達点を表す詩だとも言えるので,当時は大変嬉しかったことを覚えている。この詩を書いた児童は国語を苦手としている児童であったから尚更その思いは強かった。しかし一方で物足りなさを感じる詩でもあった。それはなぜか。この詩を読んで,児童の「想像力」が発揮されているとはあまり思えなかったからである。この詩の「どこかへいきたい」の一行の後に何らかの手立てを講じ,「どんなに気持ちいいんだろう」の気持ちを掘り下げることができればもっと良い詩になったのではないか。そして詩の世界が虚構の世界まで分け入ることができれば,さらによい詩になったのではないだろうかと感じたのである。ではそのような詩は何によって生まれるのか,どのような力があれば書けるのか。それは言うまでもなく「想像力」である。

そして児童に書かせたい詩とは「想像力を発揮して書いた詩」なのではないかと次第に考えるようになっていた。すなわち,よい詩を書くことに伴う力は「想像力」であり,国語科における詩の創作指導を通して養うべき力は「想像力」であると考えるようになったのである。

 では詩の創作指導の目的と意義は,時代的な要請・児童の実態の見地からはどのように見出せるのだろうか。次節ではそれについて論述する。

 

第二節 時代の要請・児童の実態から

本節では時代の要請・児童の実態から見える詩の創作指導の目的と意義について述べる。

2011(平成23)年3月11日,日本は大地震と大津波に襲われた。いわゆる東日本大震災のことである。2013(平成25)年3月現在死者15,882人,行方不明者2,688人を出す未曾有の大災害であり,今もその被害者数は増え続けている。

筆者はその当時,笠間市立大原小学校の4年生児童と総合的な学習の中で被災地への支援活動を行った。その過程で被災地の方々や支援者グループの方々と交流を図ったが,復旧もままならず,復興はまだまだ先のことだということを痛感した。集めた義援金や支援物資は未だ宙に浮いたままである。そして震災から2年の歳月がたった。ニュース等で被災地の報道をされることは少なくなり,被災地以外の人々から大震災の記憶が薄れつつある現状の中,西田敏行主演映画『遺体 明日への十日間』が公開された。筆者はそれを観て,まだ大震災のことを忘れてはいけないと強く感じた。日本は,今こそ現実を直視して復興をスタートさせなければならないと思った。「復旧」と「復興」の違いを改めて問い直さなければならないと思った。

福島の原子力発電所もその津波により壊滅的な打撃を受けた。現在もまだ事故処理に追われて解体撤去もできず,廃炉への見通しもつかない状態である。当時の政府からは「収束宣言」「冷温停止状態」という「言葉」が発表されマスコミが様々な形で報道した。しかしこの「言葉」は原発問題の解決を果たして意味するのだろうか。「言葉」と「現実」の対応がきちんと成されているかどうかを見極め,「言葉」のもつ真の意味をつかみとる「想像力」をもたねばならないと感じた。国語教育を通して,そのような視点をもつことの大切さも児童生徒に伝えねばならないと思った。

様々な情報や言葉が乱れ飛んでいる今日の日本において,学習指導要領の言語活動例に詩の創作指導が位置付けられたのは,ある意味必然だったようにも思える。詩の創作指導の目的を「想像力」の育成と捉えるならば,このことは重要な意味をもつのではないだろうか。

 ではこのように混迷を極める時代を生きる児童の実態はどのようなものなのだろうか。前述の教育実践3年目の1998(平成10)年度に担任した5年生(前掲の「空を見あげて」の詩を書いた児童のいる学級)と,2013(平成25年)度に担任した6年生との比較を通して考察を進めていきたい。それぞれの実態について以下に列挙する。

1998(平成10)年度度新治郡八郷町立林小5年生児童の実態

  ・ゆとり教育の影響を大きく受けていた。

  ・教科書に詩の創作指導を行う単元が採用されていた。

  ・「主体的児童詩(たいなあ詩)」の手法を学んで詩を書いていた。

  ・「生活詩」の手法も学んで詩を書いていた。

  ・卯月啓子の「アンソロジー作り」を参考に詩の環境づくりを行っていた。

  ・最終的には詩を書くことの好きな児童が増えた。

    (前出教育論文によるアンケート調査などから)

2013(平成25)年度笠間市立大原小学校6年生児童の実態

  ・全国学力状況調査の実施に伴い学力向上を優先させられる傾向があった。

  ・学力の差が激しく,詩を書ける児童とそうでない児童の差が激しかった。

  ・詩の創作指導としては,4年生の時に「連詩」に挑戦していた。

  ・他の学年では詩の創作活動は行わなかった。

 1998(平成10)年度の児童は,ゆとり教育を目指す学習指導要領改訂の影響を受け新しい学力観のもとに学校生活を送っていた。教科書の内容にもまだゆとりがあり詩の創作を行う単元も存在した。今と比べれば,比較的のんびりと詩を読んだり書いたりする機会があったと言える。詩を書くことに苦手意識をもつ児童もいたが,詩に親しむ環境づくりを心がけたり,詩を読む活動を充実させたりすることによって詩を書くことを楽しむようになることがわかってきた。

 一方,2013(平成25)年度の児童は,脱ゆとり教育を目指した学習指導要領改訂の影響を受けていた。学習内容と授業時数の増加及び全国学力状況調査等の実施に伴い,過程よりも結果を求められる傾向にあった。学力の個人差も顕著になってきていた。したがって,詩の授業も軽視されやすい環境にあったと言える。求める学力の姿に対する見解の相違が教師と児童・保護者の間に見られることもあった。詩の創作指導を通して「想像力」を養うことが成績の向上に役立つのかという疑問を抱く者もいた。

しかし,かのアルバート・アインシュタインは次のように述べている(2)。

  「想像力は知識よりも大切だ。知識には限界がある。想像力は世界を包み込む。」

ここで改めて学習活動の目的はあくまで学力の向上であり,テストの点数の向上ではないということを確認し,児童・保護者との共通理解を図っておきたいと考える。詩の創作指導の意義が見直されている今日,それを通して身につけさせたい重要な学力は「想像力」であるということを抑え,その「想像力」は無限の可能性を秘めた力であると伝えたいと思う。勿論,知識の習得を軽視する訳ではない。基礎・基本の上に「想像力」の育成があることも呼びかけていきたいと思う。

 それでは詩の創作指導の目的と意義について,学習指導要領ではどのように捉えているのだろうか。次節において明らかにしていきたい。

 

第三節 学習指導要領から

本節では学習指導要領から見える詩の創作指導の目的と意義について述べる。

学習指導要領の改訂を受け「言語活動例」が従来の「内容の取り扱い」という事項から「内容」にまで格上げされて,そこに詩の創作指導が位置付けられた。各教科書会社でもそれを重く見て,教科書の中に詩の創作指導を扱う単元を採用した。言語活動例はあくまで例であり必ず指導しなければならないものではないが,教科書に詩の創作指導の単元が採用されている現状を考えると避けて通れない道である。詩の創作指導は今回の学習指導要領の改訂を受けるまで一部の教師が実践するものという認識があったが,全ての教師が取り組んでいくべき課題となったと言える。

では,学習指導要領をふまえた上ではどのような目的をもって詩の創作指導にあたるべきなのだろうか。それはまさしく「想像力」を養うことであると考える。小学校学習指導要領解説国語編(※以下「指導要領解説」)〔B書くこと〕の言語活動例アを見ると次のようになっている(3)。

〔B書くこと〕言語活動例

   小1・2 ア 想像をしたことなどを文章に書くこと

   小3・4 ア 身近なこと,想像したことなどを基に詩をつくること

   小5・6 ア 経験したこと,想像したことなどを基に詩をつくること

   中1   ア 芸術作品などについて鑑賞したことを文章に書くこと

   中2   ア 表現の仕方を工夫して詩歌をつくること

   中3   ア 様々な文章などを集め,工夫して編集すること

この構成を見ると小学校における詩の創作指導は,小学校低学年の「想像したことなど文章に書くこと」を基礎に,小学校中学年で「身近なこと、想像したことなどを基に詩をつく」り,小学校高学年で「経験したこと、想像したことなどを基に詩をつくる」流れになっていることがわかる。いずれも「想像」がキーワードとなっている。中学校2年ではさらに発展させ,詩の技法等の指導を通して「表現の仕方を工夫して詩歌をつくる」活動例を挙げている。

つまり国語科としては「想像力」の育成が重要なキーワードとなっており,その手段の一つとして詩の創作活動が有効であると判断されたということである。また,詩を読む活動等を通して詩の技法を学ばせる必要があることも示唆している。

では,なぜ「想像力」を養うことが必要なのだろうか。「指導要領解説」では国語科の目標として次のように示している(4)。

「教科の目標は,大きく二つの部分から構成している。(中略)後段では、まず,『思考力や想像力及び言語感覚』を養うことを述べている。思考力や想像力とは,言語を手掛かりとしながら論理的に思考する力や豊かに想像する力である。思考力や想像力などは認識力や判断力などと密接にかかわりながら,新たな発想や思考を創造する原動力となる。」

すなわち「想像力」は,言語を手掛かりとしながら豊かに想像する力であり,認識力・判断力と密接に関わりながら,新たな発想や思考を創造する原動力となるものと捉えることができる。新たな発想や思考を創造する原動力は「創造力」とも言い換えられる。「創造力」は,人間が生きていく上で欠かすことのできない能力である。したがって「想像力」は「創造力」につながり,「生きる力」として働くものと解釈できる。

以上のことから本研究では詩の創作指導の目的を「想像力」を養うことと定め,詩の創作指導の意義を「創造力」を育み「生きる力」を高めることと捉えることとする。

では「想像力」とはいったいどのようなものなのだろうか。詩の創作指導と「想像力」とはどのように関わっていくのだろうか。次章ではその点について明らかにしていきたい。

 

【注】序章

(1) 八郷町教育研究会国語研究部編『山根の子第47号』1999(平成11),2,八郷町教育研究会国語研究部。

(2) 加藤周一ほか編『中学国語1 伝え合う言葉』2012(平成24)年,1,教育出版。

   元の出典は10 Golden Lessons from Albert Einstein である。

(3)  文部科学省編『小学校学習指導要領解説国語編』。2008(平成20)年1,8,東洋館出版社

(4)  (3)に同じ。

 

 

第一章 詩と想像力

 序章において,詩の創作指導の目的と意義について明らかにした。本章ではそれをふまえ,詩と想像力との関連について考察し,構造図を提示しながら本研究の全体構想について述べる。

 

第一節 詩の定義

詩と想像力との関連を考察する前に,そもそも詩とは何か,どのように定義すべきものなのか,ということについて論じていきたい。詩は定義できない,あるいはすべきではないという意見もあるが,児童に詩という表現形式を提示し,詩をつくらせるという活動を行う以上,詩とはこういうものだという意識を教師側がもっていることは必須の条件であると考える。そこで,本節では本研究における詩の定義を定め,児童に書かせたい詩の姿について明らかにしていく。

詩の定義については,多くの詩人や研究者が様々な持論を主張している。例えば畑島喜久生は『今こそ子どもたちに詩を』の中で,次のような定義を紹介している(1)。

ここに見られる詩の定義は多種多様である。共通項を見出すことができるものも勿論あるが,それらの定義を一つにまとめたり,どれか一つの定義を採用したりすることは,無理があると考える。

そこで筆者は,次に挙げる四つの定義に注目した。筆者が以前から念頭にあった詩の定義に,最も近いと感じた定義だからである。

 A「詩は心の叫びである。」(畑島喜久生)

 B「詩は観念の表現である。現象の写生・報告ではなく,作者内面の造形である。」(市毛勝雄)

 C「詩とは,見ているのに見えていないものを言葉で表現する。」(長田弘)

 D「現実をふまえ,現実をこえる世界をえがく。虚構をえがく。虚構とは人間の真実を美として表現することである。」(西郷竹彦)

 BCDは(1)に示した畑島によって紹介されたものであり,Aはその畑島自身による定義の一部である。

筆者が行ったアンケート調査の結果(2)から見ても,詩の定義を以上のようにとらえている教員が多いことがわかる。このアンケートは,「詩の創作指導」について教員が抱えている課題を調査するためのものであり,2012(平成24)年から2013(平成25)年にかけて実施したものである。調査対象は,茨城大学に内地留学をしていた国語を専門とする教員及び笠間市内の小中学校で国語を指導している教員とした。

そしてこの四つの定義は,結果的には筆者が過去の実践の中で大きく影響を受けた定義でもあった。

 ABは,松本利明の「主体的児童詩(たいなあ詩)理論」とも重なる部分がある。つまり詩とは作者の内面を描いたものであり,それを表出したいという欲求のもとに生まれるものであるという考え方である。これは,筆者の先行研究「豊かな言語感覚を養う詩の創作指導」でも参考にした詩の定義でもある。

 Cは,第五章で取り上げる足立悦男が「異化の詩教育学」の中で賛同している定義である。足立悦男は「想像力」を「見えないものを見る力」と定義し,詩を創作したり受容したりすることで異化作用を及ぼし,想像力を養うことができるとしている。

 Dは,筆者が過去の実践の中で最も影響を強く受けた定義である。西郷竹彦は,詩も含めて文学作品は全て人間の真実を美として表現したもの(たとえたもの)であるとしている。西郷竹彦の実践については,第三章第二節において改めて述べる。

 以上の定義をふまえ,本研究においては詩を次のように定義することとする。

・    詩とは,作者の心の叫びであり,作者の内面を描いたものである。

・    詩とは,想像力(見えないものを見る力)を発揮して発見したものを言葉で表現したものである。

・    詩とは,虚構のものであり,人間の真実を美として表現したものである。

 本研究では,詩を書かせることによって児童の想像力を養うことを目的としている。したがって,「想像力(見えないものを見る力)を発揮して発見したものを自分なりの言葉で表現したもの」を,児童に書かせたい詩の姿として捉えたい。そしてそれが結果として,児童の心の叫びを引き出し,自己内面の造形につながっているものであれば,よりよい児童詩であると捉えることとする。人間の真実を美として表現することについては,児童詩の段階ではレベルが高いものと思われるので,到達するものがあればよいという立場をとる。

では,詩と想像力とはどのように関連するのか。次節において考察を述べ,本研究の全体構想について明らかにする。

 

第二節 詩と想像力

 本節では,詩と想像力との関連について考察を述べながら,本研究の全体構想について明らかにする。

筆者は,本論文のまえがきにおいて次のように述べた。

現在に至るまで細々と詩を書かせ続けてきた理由は,国語教師としてのアイデンティティを保つためではない。児童の書いた詩を読んで,その瑞々しい感性に感激した経験があったからである。作文ではなく詩でしか表現できないものの中に,心の底から感動した経験があったからである。では感動を覚えた詩とはいったいどのようなものだったのか。今となって思えば,それはただ何々したいという欲求を書いただけの詩ではなく,生活を振り返って見たままありのままを書いた詩でもなく,児童の想像力が発揮されていた詩だったように思う。そこで、詩を書くことで身につけさせるべき能力は想像力なのではないかと次第に考えるようになっていた。

 筆者は過去の研究において,詩の創作指導のねらいを「感性を磨く」「言語感覚を養う」ことと定めてきた。しかし,実践を重ねていく過程で,詩の創作指導で身につけるべき力は「想像力」なのではないか,と次第に考えるようになった。

 その思いは,先行研究を分析することでさらに確信を得たものとなった。「想像力」を「見えないものを見る力」と定義し,詩の教育を通して「想像力」を育てることができると主張した足立悦男は次のように述べている(3)。

思考力(思考作用)と想像力を,私は,詩教育における重要な学力と考えているが,この定義からは,思想型の受容指導・創作指導は,その思考力と想像力を育てる教育であることがわかる。

 詩の創作指導を通して想像力を育てるという視点は,青木幹勇・山際鈴子らの実践家も重要視しており,共通したテーマである。青木幹勇・山際鈴子の実践及び足立悦男の言う「思想型の受容指導・創作指導」については,第五章において後述する。

さらに「いま時代は,感性の時代。詩的想像力が強く求められている時代」と主張した畑島喜久生は,「詩の学習は、教育の中核になりうる。」とし,「詩の鑑賞指導と創作指導は表裏の関係」と述べている。畑島はその著書の中で,子どもに詩を書かせるねらいを次のように述べている(4)。

  1 ことばのもつ本質的な始原性を感じとらせる。

  2 詩のことばのはらむヒビキの機能を感得させ,あわせてそこから,ことばの美しさの自覚化へといざなう。

  3 「感受性」の幅をひろげる。

  4 五感ないしは“第六感”といわれる知覚的な「感覚」を磨かせる。

  5 感覚・感情をふくめた「感性」の柔軟性,ならびに「感性的認識力」を培う。

  6 創造的活動の基盤としての「想像力」を養う。

 筆者は特に,6の「創造的活動の基盤としての『想像力』を養う。」という考えに注目する。序章において,「想像力」は「創造力」につながるということを,学習指導要領解説の表現を分析しながら説明した。畑島の意見は,現行の学習指導要領の目標とも合致したものであることがわかる。

畑島の「詩の鑑賞指導と詩の創作指導は表裏の関係」という意見も興味深い。辻井喬も次のように述べている(5)。

詩は,人を表現へと駆り立てる動きと,それを共感したいと思う力,つまり創造力と想像力,このふたつが混じり合ってできるものである。形を持っていなかったもの(他の人には見えていないものだが,詩人にとっては現実に感じるもの)を他の人にも見える形にすることによって,それを人々と共有したいという欲望が詩を作らせる。

 辻井喬の考えは,足立悦男の主張する「想像力(見えないものを見る力)」と,畑島喜久生の「詩の鑑賞指導と詩の創作指導は表裏の関係」という意見を融合させたもののように思える。辻井はこの他にも,その著書の中で様々な詩人の主張を引用しながら,詩と想像力との関連について持論を展開している(6)。

また,日本児童詩教育の歴史について研究を進めた弥吉菅一も,次のように述べている(7)。

  児童詩の「よしあし」を自分自身で判断し,その児童詩の「うけいれ」と「はねのけ」のできる想像的創造力のある子どもを育てたい。

「想像的創造力」ということばの解釈に関しては,また別の機会に譲ることとするが,詩の指導を通して想像力を養うという視点は的外れなものではない,ということが言えそうである。

では児童の想像力を養うために,詩の創作指導を充実させるためにはどのような前提が必要になるのであろうか。本研究のまえがきにおいて示したように,筆者は過去の実践の反省をふまえ次のような仮説を立てた。

・ 詩に親しむ環境があること

・ 詩を読む活動が充実していること

・ 普段から文章を書き慣れていること

「詩に親しむ環境がある」とは,教室内に詩が掲示されていたり,学級文庫に詩集のコーナーが常設されていたりすることで,日常的に詩にふれる機会があるということである。詩に親しむ環境づくりをすれば,児童に詩の言葉・リズム・心にふれさせることができるであろうと考える。本研究では,これを第一の柱とする。

「詩を読む活動が充実していること」とは,国語の学習の中で詩の授業が充実したものになっているということである。詩を読む(受容する)活動が充実すれば,詩の味わい方を知ることができ,詩人のものの見方や考え方にふれることができるであろうと考える。本研究ではこれを第二の柱とする。

「普段から文章を書き慣れていること」とは,言葉を紡ぎ出す経験が豊富にあり,文章による表現活動を継続的に行っているということである。「日記指導」を通して文章を書くことに慣れさせていけば,児童は自分の思いを言葉で表現できるようになるであろうと考える。本研究ではこれを第一の柱と第二の柱の土台になるものと捉える。

以上をまとめると,詩の創作指導を充実させるために必要な前提として,「詩の環境づくり」「詩の受容指導」の二本の柱があり,それらを支える基盤となるものに「日記指導」があるということになる。そこに第三の柱「詩の創作指導」を加えて全体構想を組み上げていくと「想像力を養う詩の創作指導」の構造図は次のようになる。

通常,「詩の創作指導」と言えば,詩をつくらせるための方法論のみに目が行きがちであるが,本研究では「詩の創作指導」を単独のものとして捉えない。土台である「日記指導」と「詩の環境づくり」「詩の受容指導」「詩の創作指導」の三つの柱それぞれが密接に関わり,それら全てを一体として捉えたものを本研究における「想像力を養う詩の創作指導」とする。

「詩の環境づくり」については第二章,「詩の受容指導」は第三章,「詩と日記指導」が第四章,「詩の創作指導」を第五章で詳説する。

 なお本研究では「受容指導」という言葉を用いるが,それは以下のようなものである。一般的には,詩を読むことを「鑑賞」すると表現し,詩を読む学習活動を展開することを「詩の鑑賞指導」と呼ぶ。しかし鑑賞という言葉は,音楽や美術などの芸術作品を味わう時に使われる言葉である。確かに詩も文字を使った芸術,つまり文芸作品であるので,詩を読むことを鑑賞すると表現することは妥当であるかもしれない。

しかし,詩を読む活動を詩の創作指導の柱の一つとするためには,詩を「鑑賞する=味わう」だけでは,その目的を達成することはできないのではないか。

 足立悦男は,ものの見方に焦点化した詩教育論を提案し,「異化の詩教育論」を唱えた。そして,次のように述べている(8)。

本稿では,ポスト鑑賞論の立場を明確にするために,従来の鑑賞という用語に代えて,受容という用語を使用する。

私は,詩の受容指導を「詩を読む活動によって,異化の世界を作り出すこと」と定義してきた。

この意見を参考にし,本研究においては「詩の鑑賞指導」を「詩の受容指導」と表現することとする。詩を読むことを通して,その詩のよさを味わうことだけでなく,その詩をどのように受け止めたか,その詩を受け止めることによって自分自身がどのように変容したかということが重要だと考えるからである。

 以上,本章では詩の定義及び児童に書かせたい詩の姿,そして詩と想像力の関連について考察し,構造図を示しながら本研究の全体構想について述べた。では次章において,柱の一つめ「詩の環境づくり」の在り方について論述していく。

 

【注】第一章

(1) 「詩の定義について」(畑島喜久生編『いまこそ子どもたちに詩を』1995(平成7)年,5,国土社)。

・「詩とは,見ているのに見えていないものを言葉で表現する。」(長田弘)

・「現実をふまえ,現実をこえる世界をえがく。虚構をえがく。虚構とは人間の真実を美として表現することである。」(西郷竹彦)

・「詩は観念の表現である。現象の写生・報告ではなく,作者内面の造形である。」

(市毛勝雄)

 ・「詩は意味してはならない。存在するのだ。」(アーチボルド)

 ・「詩の定義の歴史とは誤謬の歴史である。」(T.S.エリオット)

 ・「詩とは,思想の情緒的等価物である。」(T.S.エリオット) 

 ・「ある崇高な美への人間の熱い願望である」(ボードレール) 

 ・「人間生活に対する体当たり的なエネルギーの放射だ」(高村光太郎)

 ・「人間感情の方程式を与えてくれるものだ」(パウンド)

 ・「『現在(ザイン)しないもの』へのあこがれである」(萩原朔太郎)

 ・「慣習への弔砲である」(ピシェット)  

 ・「散文は『歩行』であり,詩は『舞踏(ダンス)』である」(ヴァレリー) 

 ・「散文は想像的現実であるが,詩は想像的なもの自体である。」(吉本隆明)

 ・「詩は想像的実現であり,散文は構成的表現である。」(ハーバード・リード)

 

(2) 教員が思い描く詩の定義の傾向(アンケート調査の結果より一部抜粋)。

3 あなたの考える「詩」の定義に,最も近いものを選んで○をつけてください。

A 「詩は意味してはならない。存在するのだ。」(アーチボルド)    11人

B 「詩とは思想の情緒的等価物である。」(T・S・エリオット)    14人

C 「ある崇高な美への人間の熱い願望である。」(ボードレール)    12人

D 「人間生活に対する,体当たり的なエネルギーの放射だ。」(高村光太郎)22人

E 「『現在(ザイン)しないもの』へのあこがれである。」(萩原朔太郎)  5人

F 「見ているのに見えていないものを言葉で表現する。」(長田弘)   67人

G 「現実をふまえ,現実を超える世界を描く。」(西郷竹彦)      20人

H 「人間の真実を美として表現することである。」(西郷竹彦)     22人

I 「作者内面の造形である。」(市毛勝雄)              54人

J 「詩は心の叫びである。」(畑島喜久生)              70人

(3) 足立悦男「異化の詩教育学―思想型の創作指導」(『島根大学教育学部紀要(教育科学)』第41巻,2007(平成19)年,58~72頁)。

(4) 畑島喜久生編『いまこそ子どもたちに詩を』1995(平成7),5,国土社。

(5)  辻井喬編『詩が生まれるとき』1994(平成6),3,講談社現代新書。

(6) 「詩と想像力の関連について」(5)に同じ。辻井が引用している定義は以下のものである。

・「ポエジイはいつも新しい関係を創作することによって人間に自然の法則と現実を より深く感じさせるという価値をもっている」(西脇順三郎『詩学』より)

・「連想という法則に従う物事の再生,つまり連想で物事をもう一度,表層に再生するという行為が想像力である。」(カント)

・「想像力とは,自然が分離したものを結びつける,あるいは自然が結んだものを分離する働きだ。」 (フランシス・ベーコン)

・「想像力とは,ものの法則に反する結合と離別を創り出すことである。」

・「ポエジーとは新しい関係をつくること,発見すること」

・「私は理性から想像力が生まれたものと考えたい」(西脇順三郎)

・「想像力は死んだ。想像せよ。」 (ベケット)

これをもとに辻井は詩と想像力との関連について述べている。以下はその概要である。

「詩は言葉の想像力を回復・獲得する営為」

「詩というものは詩人の内的世界に蓄積されていた要素が何らかの刺激によって表 現を求めて動き出した結果である」

「詩は,人を表現へと駆り立てる動きと,それを共感したいと思う力,つまり創造力と想像力,このふたつが混じり合ってできるものである。」

「形を持っていなかったもの(他の人には見えていないものだが,詩人にとっては現実に感じるもの)を他の人にも見える形にすることによって,それを人々と共有したいという欲望が詩を作らせる」

「想像力には,人間を解放してくれる作用がある。」

「想像力によって人間は社会のしきたりから自由になれる」「今までに見えなかった ことが見えてくる」

「現代詩の困難は“伝統からの断絶に苦しむ所”と“想像力の崩壊”である」

「想像力の働きようのない社会(すべてが他人事で少しもかまわない,今のままで自分たちは十分幸せなんだからという意識。情報化社会。没倫理,没思想的なマスメディア時代)」

(7) 弥吉菅一編『日本児童詩教育の歴史的研究』1989(平成元)年,2,溪水社。

(8) 足立悦男「異化の詩教育学―実践個体史研究」(『島根大学教育学部紀要(教育科学)』第33巻,1999(平成11)年,1~30頁)。

 

 

第二章 詩の環境づくり

 前章では,詩の定義や詩と想像力との関連について考察し,本研究の全体構想について構想図を示しながら述べた。

詩の創作指導をテーマに掲げる研究では,創作指導の方法のみに重点を置く傾向があるが,筆者は,創作指導の方法のみを論じる立場ではない。本研究では,「日記指導」を土台としながら「詩の環境づくり」「詩の受容指導」「詩の創作指導」の三つの柱それぞれが密接に関わり,それら全てを一体として捉えたものを「詩の創作指導」としている。

では,一つめの柱である詩の環境づくりの在り方はどうあるべきなのだろうか。本章では,筆者の過去の経験から見える課題を提示しながら,卯月啓子の実践を参考に考察していく。

 

第一節 詩の環境づくりに関わる課題

序章において既に述べたが,詩に親しむための環境作りをするために,筆者は卯月啓子の実践を忠実に再現したことがある。それは「豊かな言語感覚を養う指導の在り方~詩の創作指導を通して~(4年間の継続研究から)」の3年次の中での教育実践であった。卯月啓子の実践については,次節において詳説する。

筆者は当時,松本利昭の「主体的児童詩(たいなあ詩)」の方法論を参考に,詩の創作指導を行っていた。児童は自分自身の欲求を言葉で綴ることを通して,次第に自分の思いを詩として表現することの楽しさを味わうようになっていった。自ら進んで詩を書こうとする児童も増えた。

しかしながら,その実践で生まれた詩の中には,面白味に欠け,果たして詩と呼んでよいものか疑問に思う作品が数多くあった。児童に詩を書かせる当時のねらいは,児童の心の叫びを引き出し,感性を豊かにし,言語感覚を養うことであり,より芸術的な詩を書かせることでも,コンクールに入賞できる詩を書かせることでもなかったが,もの足りなさを感じることがあった。

当時筆者が抱えていた問題意識は,児童が詩にふれる機会が少ないのではないかということであった。実際に詩にふれる機会が少ないということは,詩に親しみ,そのよさを味わう経験が少ないということである。詩のよさを理解せずに詩を書くことはできないと考えていた。勿論,教科書には詩教材が用意されているが,あくまでトピック的な扱いであり,児童が実際に詩にふれるのは年間を通して数編といったところである。詩を書かせようとするなら詩にふれる機会を意図的に増やすべきではないかと考えたのである。

そこで,筆者は卯月啓子の「アンソロジー(名詩選)づくり」の実践に着目した。卯月啓子は,児童に詩の技法は教えず,ただひたすら詩の世界に浸らせるという方法をとり,優れた児童詩を生み出していた。筆者はその実践を忠実に再現することで,児童の詩に変化が出てくるかどうかを検証したいと考えた。

その結果,言葉のリズムを大切にして書いた詩が増え,「反復」や「比喩」などの技法を駆使して書いた詩が見られるようになってきた。また,自ら進んで詩を書いたり,コンクール等に応募したりする児童が増えた。それまでは「書かされていた」という傾向の否めない作品が少なからずあったが,楽しんで書いている様子の見られる作品が多く見られるようになっていった。当時とったアンケート調査の結果を振り返ると「詩を読んだり書いたりすることが苦手」と答えていた児童が「詩を書くことが好き」と変容していく姿も見られた。

序章において引用した児童詩「空を見上げて」も,この当時に筆者の指導によって書かれたものである。その他にもたくさんの児童詩が生み出され,児童の瑞々しい感性に心の底から感動を覚えたことを思い出す。あまりの劇的な変化に驚き,詩の創作指導の原点はここにあるのではないかとも感じた。すなわち,理屈抜きで日常的によい詩に多くふれさせるということが詩の創作指導にとって重要なことなのではないかということである。

 では,次節において卯月啓子の「アンソロジー(名詩選)づくり」の実践の内容について詳しく述べる。

 

第二節 卯月啓子「アンソロジー(名詩選)作り」

 前節において,詩の環境づくりに関わる課題を述べた。本節では,前述の卯月啓子の実践内容についてまとめ,考察を述べる。

 卯月啓子はその著書の中で次のように述べている(1)。

   詩を楽しませたい。美しいことばの響きにまるごと身をゆだねさせたい。ものの見方,感じ方の鋭さ,豊かさ,やさしさにひたらせたい。理屈抜きで,詩を体で感じさせたいと願いました。

   そのためには,本物の詩に出会わせることが大切だと考えました。(中略)

   それらの詩と子どもたちを出会わせる方法として,アンソロジー(名詩選)作りというとてもよい方法があります。私はこれまでにうけもってきた1年生から6年生までの子どもたちと共に,毎年,アンソロジー(名詩選)作りを行ってきました。

   やり方は学年に合わせて少しずつ変わりましたが,どの学年の子どもたちもアンソロジー(名詩選)作りを通して,詩の世界に遊んできました。その中で,詩に出会い,詩の心に親しみ,詩の表現に親しみ,詩の心と表現とを学んできました。

   読んで味わうことと並んで,創って楽しむことも大切にしてきました。読んで楽しみ,創って楽しむこと,言い換えると鑑賞と創作の楽しみ,この二つのことを共に楽しみ,楽しむ中で,両方の力が伸びるように,詩の学習指導の場を作ってきました。

 卯月啓子はこのように自らの思いを述べ,1学年から6学年までそれぞれの実態に応じて,詩の環境づくりをベースに様々な詩の創作指導を行ってきた。どの学年においてもその核となるものは共通しており,その実践内容の概略は以下のようになっている。

 

① 教室にある詩集の中から,毎日一編ずつ日直が選んで、背面黒板に書き写す。

② 同じ詩を日直がカラーアート紙(B4版)に美しく書き写す。

③ 日直は,その詩に合うようなイラストを入れコメントを付けていく。

④ 次の日の朝自習の時間,児童は背面黒板の詩を各自のノートに書き写す。

⑤ アンソロジー作りを通して,詩の心,リズム,書き方などが無理なく児童の体の中に入り込むのを待つ。

⑥ 自分の好きな詩を真似して詩を書くことを奨励する。

⑦ 詩を書く機会をとらえ,詩を書く材料となる経験をもたせる。

⑧ 児童が自然に詩を書き出すようになるのを待つ。

掲示された詩を学期ごとにまとめ,製本していくと1年間で学級アンソロジーが3冊できることになる。このような実践を継続していく中で,児童は日常的に詩に触れ,詩を肌で感じることができるようになっていく。そして,児童は自然に詩を書き出すようになるという。卯月啓子の実践を通して生まれた詩に次のようなものがある(2)。

     春は遠い南の島から

             小原善文

   ふかふかした

   風とともにやってくる

   そして山たちも

   春がきたのをききつけ

   ころもがえをする

   虫たちも

   目がさめる

   春がきたな…

 

     まほうにかかった太陽

             斉藤淳史

   とつぜんこがらし

   ふいてきて

   赤い太陽白くした

   雲ももくもくやってきて

   ふたりで太陽白くした

   きっとふたりで

   太陽に

   まほうをかけたんだ

   太陽まぶしくなっちゃった

 

     せなか

           斉藤幸代

   せなかは、あったかい

   ひろい

   お父さんのせなかも

   ひろい

   せんせいのせなかも

   お母さんも

   おじいさんも

   おばあさんも

   こどもも

   どうしてなんだろう

 

 卯月啓子は,詩の形式や表現方法は教えられても,詩の心は教えることはできないと主張し,アンソロジー作りを通して,自然に詩が生まれてくることを期待した。そして詩作の理屈を教えなくても,詩の形式や表現方法などは,多くの作品にふれるうちに直接学びとることができるとしていた。

確かにここに挙げた児童の作品を見ると,日常生活の中で発見した感動を自分なりの言葉で表現することができており,想像の力を働かせて書いている様子がうかがえる。またいずれの作品も,反復や類比・対比、比喩など詩の技法を駆使し,言葉のリズムも大切にして書いている。

 ⑥の「自分の好きな詩を真似して書くこと」について,敬遠する指導者もいることと思われる。しかし卯月啓子はそれを「翻作」と表現し,次のように主張している(3)。

   本物の詩に出会って楽しむことと,自分で創作して楽しむことの間に,もう一つ楽しい世界があります。それは作りかえて楽しむ世界です。子どもたちは,詩人の作った詩を作りかえる中で,原作との親しみを一層深め,原作の持つ感性の輝きや表現の妙を自分の中に取り込んでいくようです。

原作を作りかえることによる学習指導法のことを,千葉大学教授の首藤久義氏は「翻作表現法」と名付けてその有効性を高く評価しています。首藤氏の唱える「翻作表現法」は大変広い概念で,詩を作りかえることばかりでなく,複数の詩集をもとにしてアンソロジーを作るというようなことも,その中に含まれています。

 筆者は,この文章を読んだ時,肩の力がフッと抜けたように感じたことを記憶している。詩に限らず,作文などのコンクールの世界では「盗作」ということが実際に行われているため,「真似をして書かせる」ということに悪いイメージを抱いていた。しかし,これも教室という場の中で,よい詩を見つけ出しそれを真似して遊ぶという考え方ならば,何の問題もない。本来,人はあらゆる分野で「真似をしながら学ぶ」ということを行っているのである。これに気づいたことは,筆者にとって大きな発見であった。

詩の創作指導の原点はここにあるのではないかと思った理由はここにある。すなわち,理屈抜きで日常的によい詩に多くふれさせ模倣させるということが詩の創作指導にとって重要なことなのではないかということである。

 では次節において,詩の環境づくりに関わる課題をふまえ,卯月啓子の実践を参考に詩に親しむための環境づくりの在り方についてまとめる。

 

第三節 まとめ

 前節において,卯月啓子の実践は詩の創作指導の原点ではないか,という筆者の考えを述べた。詩に親しむための環境づくりを行い,アンソロジー作り等を通して詩にふれる機会を増やすことは,詩の創作指導を進めるための柱の一つとして欠かせないものだと考える。卯月啓子の実践を参考にしながら,自分の学級の実態に応じて是非とも詩の環境づくりを進めたいものである。

しかし課題も残されている。卯月啓子の「アンソロジーづくり」を忠実に再現することは,教師にとっても児童にとって負担が大きいということである。そのため,詩の創作指導の原点だとまで感じたこの実践も,筆者は結局1年で挫折した。詩を学校生活の中に日常的に取り入れていくという作業に,困難を感じ始めていたからである。

現実問題として,筆者の勤務校において児童の学校生活のスタイルを振り返ると,卯月啓子の実践を忠実に真似ることは不可能であると言わざるを得ない。現代の小学生は,教師に負けず劣らず多忙である。特に高学年児童は集団登校と集団下校のまとめ役として始業前と始業後の時間に余裕がない。また委員会活動等で業間休みと昼休みの時間も拘束されることがあり,放課後も部活動に参加する児童が多い。そのため,日直が当番活動として詩を書く時間を確保することが困難である。

さらに全ての児童に毎朝詩を書かせるのも厳しい。朝の時間は,日替わりでドリルと朝会と読書の時間として設定されており,一つの学級だけ独自の時間を設けることは難しい。国語の授業の一部を利用するという方法も考えられるが,学習指導要領の改訂に伴い学習内容が大幅に増えた今日,そのゆとりもない。

したがって,無理なく児童が詩に親しむための環境づくりを進められるように工夫しなければならない。アンソロジー作りが指導者と児童の負担にならないよう配慮することが大切である。詩の環境づくりは年間を通して継続的に行われなければならないものだからである。過去の筆者のよう,無理をしてアンソロジー作りに取り組み,途中で挫折してしまってはならない。

 そこで本研究では,詩の環境づくりとして次のように実践を行うこととした。

・ 学級文庫に詩のコーナーを作り,教師が折に触れて好きな詩を紹介する。

・ 掲示係が週に一回詩を選び,色画用紙に書き写す。

・ 色画用紙に書いた詩は背面黒板に掲示する。

・ 前の週に掲示されていた詩は,教室前面に掲示する。

・ 児童は水曜日の朝の時間(本来読書の時間であるところを詩の時間と変更)に,その詩を各自の日記ノートに書き写す。

・ 朝の時間で詩の視写の時間が確保できない時は,教師がその詩をコピー・印刷して児童に配付する。

・ 年間で1冊のアンソロジーを製作し,児童に紹介する。

 詩の掲示を日替わりではなく週替わりとしたのは,時間の確保の問題が大きい。しかし,詩が毎日のように入れ替わるのは果たしてどうか,という疑問を以前から感じていたからでもある。一つの詩を1週間くらい何度も眺め直すということも,児童に新たな気づきをもたらすという点で効果的なのではないか。また日常的にふれるべきものは散文であり,詩は非日常のものであるという筆者のイメージもある。散文が「日々の食事」とするならば,詩は「ごちそう」という思いが筆者にはある。

 以上,詩の環境づくりにおける現状と課題をふまえ,卯月啓子の実践を参考に詩に親しむための環境づくりの在り方について考察してきた。詩の環境づくりをすることは,詩の創作指導の重要な柱の一つになると考える。

卯月啓子は詩の技法や形式を教える方法をとらず,詩の世界を児童にまるごと味わわせることによって,自然発生的に詩が生み出されることを期待した。しかし本研究では,そこからさらに一歩進めたい。詩の環境づくりを行い,これに自分の心をことばで表現する力,詩を味わう力,詩の技法を活用する力が加われば,さらによい詩(想像力を発揮した詩)が書けるようになるのではないかと考えるからである。

 では,次章において「想像力を養う詩の創作指導」の柱の二つめ「詩の受容指導」の在り方について述べる。

 

【注】第二章

(1)  卯月啓子編『教室に広がる詩の世界 アンソロジー作りから翻作・創作へ』1996,3,東洋館出版社。

(2) (1)に同じ。

(3) (1)に同じ。

 

 

第三章 詩の受容指導

前章では,本研究の柱の一つである詩の環境づくりの在り方について考察を述べた。本章では,もう一つの柱である詩の受容指導の在り方について述べる。詩の受容指導における現状と課題を踏まえながら,先行理論・先行実践等を分析することを通して,詩の世界を味わい楽しむことができる授業について,考察していく。

第一節 詩の受容指導における現状と課題

本節では,詩の受容指導における現状と課題について述べる。教育の現場では,今までどのような詩の授業(受容指導)が行われ,どのような課題があったのだろうか。筆者自身の経験(小学校12年間・中学校4年間)を振り返って,自分なりの考察をまとめてみたい。

詩の授業における問題点は,以下の四点に集約される。

① 詩の授業は楽しくない。

② 詩の授業は難しい。

③ 詩の授業は軽視される。

④ 詩の授業は敬遠される。

詩の授業は楽しくない,と感じることがある。その理由は何か。それは詩が感性に多くを左右される素材だからである。すなわち,好き嫌いが分かれる教材だからだと言える。筆者自身詩を読むことは好きだが,授業を行う際に困難を感じることが多々あった。教科書教材の詩は,それを指導する教師の好みと合わないことがよくあるからだ。

教科書に採用されるレベルの詩であれば,教材研究を繰り返し詩の内容を丹念に読み込めば,必ずそのよさや味わい・趣などが発見できるはずである。しかし,そこまで教材研究に時間を割く余裕が現場の教師にはない。仕方なく第一印象でその詩の内容をとらえ,授業をしてしまうことがある。教師自身が対象に興味を抱かずして楽しい授業ができるはずもない。

一方,教科書教材の詩とは別に,自分の好みの詩を用意し授業を試みようとしたこともある。ただし,その詩のよさを児童生徒にも味わわせたいと考えるならば,優れた先行実践の分析をもとに自分なりの解釈を加え,児童の発達段階に合わせた授業を設計する必要がある。だが現場の教師には,指導書を読む時間を確保することさえ難しいのが現状である。詩の授業に労力をかける余裕はなかった。その授業によって詩のよさを引き出すことができたかどうかは疑問である。

詩の授業は難しい。なぜそのように感じるのだろうか。それは先行実践にふれる機会が少ないからだと思われる。教育の現場で詩の授業を見る機会は少ない。校内研究でも同僚の詩の授業を見たことは,この16年間ほとんどなかった。詩に関する先行実践が少ないために基準となる学習指導案の例も少なく,その作成には困難を伴う。また詩の授業は,小単元の中で単発的に行われることが多く授業研究の対象になりにくい。詩の授業を見る機会が少ない理由はそうした事例によるものだと考えられる。

そこで詩の授業を実践しようとする場合は,自分が小・中学校で教わってきた経験を基盤に学習指導書等を紐解きながら,教材研究を行い授業設計しようとする。しかしながら果たして,小中学校時代に記憶に残る詩の授業を受けた経験があっただろうか。詩の授業の記憶がなく詩の授業の流れがわからないので,詩の授業は難しい,と認識してしまうのではないか。

その結果,詩の授業と言えば音読と暗唱が主になることが多い。そして無難な感想を自由に述べ合い,解釈は人それぞれに任せ,児童生徒の学習活動を評価の対象とはしないという,あまりよくない意味での詩の授業の典型が出来上がってしまうのである。そこには,詩の世界を味わい楽しむという概念は存在せず,詩を学ぶ意義を見出すことも難しい。

詩の授業は敬遠される傾向がある。それはなぜか。詩を活用した学習活動は評価の対象になりにくいからである。現場での国語科の指導は漢字学習や文章教材の読み取りに比重がかけられている。テストの点数という目に見える結果が出るので客観的な評価がしやすいからだ。事実,単元テストで詩の内容が扱われることはほとんどない。

だから,評価のしにくい詩は敬遠される傾向にあると言える。成績や評定に関わりの薄い詩の授業に時間をかける余裕など無いというのが,日々多忙な学級担任にとっての本音である。国語を専門とし詩を読んだり書いたりすることが好きな筆者でさえ,詩の授業の時間の確保に悩むことがある。ここに詩の授業の課題が見られる。

詩の授業は軽視される。それはなぜだろうか。日々の忙しさのため詩に時間をかける余裕が無く,また指導の意義も見出しにくいからである。国語の授業の中で詩を扱う機会は,小学校の場合,東京書籍の教科書を活用していた時は少なくとも年に4回あった。教科書の構成を見ると,まず上の教科書には巻頭詩が掲載されている。次に1学期の音読教材としての詩が配置され,三つ目は下の教科書の巻頭詩があり,最後に2学期の受容教材としての詩が置かれている。果たして自分は,これらの教材を活かすことはできていたのだろうか。年間にどれだけ詩の授業に時間をかけてきたのだろうか。

まず,上の教科書の巻頭詩について私見を述べる。国語教科書の表紙ウラ,あるいは一頁目には,全ての学年の教科書に詩が掲載されている。春や進級の喜びをテーマとしたものが多く,学年の発達段階に応じた道徳的価値観を内包しリズムがよく音読しやすい詩が選ばれている。学級開きのための資料として,また国語の授業のスタート教材として活用されることをねらった詩である。ここでは,詩の内容にまであまり深く踏み込むことはない。一斉に音読したり自由に感想を述べ合ったりすることで,気持ちを新たにする効果を期待するものである。しかし4月は大変に忙しい。4月末のPTA総会及び保護者向け授業参観に向けて学級環境を整えなければならず,その作業で繁雑さを極める時期である。巻頭詩を全く活用しない学級もあるだろうと推測される。ここで扱われる詩は,単元を構成する要素の一つではなくあくまでも資料であるからだ。

次に,1学期の音読教材としての詩である。ここでは,文学的文章教材との抱き合わせで出てくることもあり授業設計に悩むことがあった。詩と文学的文章の音読をいかに関連づけて指導すべきか,について熟慮すべき課題があったように思う。ただし一般的にこの単元は音読が主な活動と言えるので,詩の中身については児童一人ひとりの感性による解釈に任せ,音読や暗唱を楽しめればよしとしてしまうことがあった。

三つ目は,下の教科書の巻頭詩である。こちらは,4月のものよりもさらに扱いが小さくなる傾向がある。上から下の教科書に切り替わるタイミングは10月頃である。9月末の秋季大運動会を終えて一息つき,11月頃の文化的行事のラッシュが始まるまでの狭間の時期である。気候的にも過ごしやすくなり,運動会の練習等での遅れを取り戻すために集中して学習に取り組みたい時期である。詩に時間を割く余裕はない。下の巻頭詩を活用するなら,より適切な時期は長い夏休みが終わった2学期始めであり,下の教科書との切り替えとのタイミングにズレがある。したがって,いかに素晴らしい詩が用意されていても活用しづらく,1~2度音読するだけで終わりにしてしまうことが多かった。全く扱わないこともあった。

最後に,2学期の受容指導である。じっくり詩を読み詩の世界を味わい楽しむことができるような活動が期待される。だが教科書の中では,10月~11月頃の小単元として大単元と大単元に挟まれ,単発的に配置されていることが多い。2学期も半ばを過ぎるこの時期,授業を効率的に進めておかなければ,2学期の成績(評定)を出すことが困難になるという現実がある。2学期後半は学校行事に追われる日々が続く一方で,教科の学習内容も多く密度も濃い。単元テストの採点に追われ,学級担任が焦りを感じ始める時期でもある。詩の小単元は,詩の指導に関心の低い教師が担任する学級では読み流されて終わってしまうことさえあり得る。そのような状況の下,その教材自体が指導者側の好みにそぐわないものだったとしたら,詩の授業はさらに軽視されるものになる。

以上,過去の経験から想起される四つの問題点を挙げて,詩の受容指導における現状と課題を探りその理由を考察してみた。以下にそれをまとめる。

① 詩の授業は感性に左右されるので,好き嫌いが分かれ楽しくないと感じることがある。

② 詩の授業は先行実践にふれる機会が少ないので,授業の方法がわからず難しく感じる。

③ 詩の授業はテスト問題に採用されないので,評価の対象になりにくく敬遠される。

④ 詩の授業は授業時間を確保しづらいので,扱う意義も見出しにくく軽視される。

これらの課題を解決していくために,重要だと思える観点は三つある。教師が「詩の理論」と「詩の授業の方法」を身につけ,「詩の授業の目的」についての意識をもつことである。

「詩の授業が楽しくない」という課題を解決するためには,教師側が「詩の理論」を身につけることが必要である。まず教師自身が,「詩の理論」を知り,教材となる詩を自分なりに解釈し,そのよさを味わい楽しむことができるようにならなければならない。そこで初めて,楽しい授業への可能性が開くものだと考える。ただし,児童生徒に詩のよさを伝えるためには,授業の中だけで指導することには限界がある。第二章「詩の環境づくり」で述べたように,詩に親しむことのできる環境づくりを教師が意欲的に楽しみながら進め,あらゆる機会を通じて優れた詩を児童生徒に数多くふれさせることが必要である。

「詩の授業が難しい」という課題を解決するためには,「詩の授業の方法」を身につけることが必要である。優れた先行実践をもとに詩の受容指導の在り方を究明し,自分なりの詩の授業の形を創出しなければならない。ただし画一化された授業,定式化された授業は詩の授業では無理があるだろう。どの詩でもできるという「詩の授業の型」を作り出すことはおそらくできない。ただし授業の典型(パターン)を知り,数多く実践を積み重ねていけば,あらゆる詩に対応できるようになるのではないだろうか。

「詩の授業が敬遠・軽視される」という課題を解決するためには,「詩の授業の目的」についての意識をもつことが必要である。教師側が詩を学ぶことの意義を明確にし,児童生徒にどのような力を,どのような方法で身につけさせ,どのように評価していくべきかを考えていかねばならない。

詩を学ぶことは,「言葉を大切にすること」「リズムを大切にすること」「心を大切にすること」である。なぜなら,詩は「詩の言葉」「詩のリズム」「詩の心」によって生まれるものだからである。詩の授業を通して「言葉」「リズム」「心」を大切にする姿勢が身につけば,児童生徒の感性が磨かれ,豊かな言語感覚が養われ,新しいものの見方・考え方が身につき,想像力が育まれるであろうと考える。

また,その育まれた想像力が創造力につながる,ということについては序章「詩の創作指導の目的と意義」で述べた。すなわち,詩の創作指導は詩の受容指導の充実があって成立するものだと解釈する。

では詩の受容指導の在るべき姿とはどのようなものなのだろうか。また詩の受容指導を充実させるとは,どのような意味なのだろうか。次節では,筆者の教育実践「豊かな言語感覚を養う指導の在り方~詩の創作指導を通して~(4年間の継続研究から)」の中で,最も参考にしていた西郷竹彦の実践分析を通して,詩の受容指導の在り方を考察していく。

 

第二節 西郷竹彦「詩の受容指導」

 前節では,詩の受容指導の現状と課題について考察し,詩の受容指導の在るべき姿に迫った。本節では,筆者の教育実践「豊かな言語感覚を養う指導の在り方~詩の創作指導を通して~(4年間の継続研究から)」の中で参考にし,かつ有効であったと思われる西郷竹彦の実践分析を通して,詩の受容指導の在り方を考察していく。

 西郷竹彦は,文芸教育研究協議会(文芸研)の理論的支柱として活躍し,様々な詩の受容指導の在り方を提案してきた。西郷は「詩の定義」について次のように述べている(1)。

「詩は〈ことば〉の芸術であり〈虚構〉である。〈虚構〉とは,人間の真実を美として表現したものである。」

したがって詩の授業は,まず、ことば・表現の教育であり,人間の真実の教育でもあり,同時に,芸術教育の側面を担うものであるとしている。そして,「詩」は「虚構」であるから,詩を読むためには,詩人の「虚構の方法」すなわち「詩の技法」を学ばなければならない,と西郷は主張する。

ここで,西郷の主張する「虚構」の定義について説明を加えておく。西郷理論における「虚構」とは,単なるフィクションではなく,「現実を踏まえ、現実を超えた世界」のことである。詩で表現された世界が,現実であるかないかという点については,あまり問題にしていない。どのような現実を踏まえて描かれ,どのような人間の真実を,どのような美として表現しているのか,が重要であるということである。ここで言う「美」は,「きれい」というよりも,むしろ「おもしろさ」や「味わい」と言った方が妥当であると西郷は述べている。

だから詩の受容指導においては,詩そのもののおもしろさ・味わいが,どのような詩の技法を用いて表現されているかを理解することが大切なねらいの一つになると解釈できる。つまり詩の技法を理解させる指導を充実させることが,詩の受容指導の充実につながるものと西郷は捉えている。

では,西郷理論によって重要視されている詩の技法とは,どのようなものなのだろうか。またどのような授業を展開して,詩の技法を児童に理解させてきたのだろうか。

西郷は編著書『詩の授業 理論と方法』((1)参照)の中で,重要な詩の技法を説明するために優れた詩作品を多数引用しながら論を進めている。そして,詩の技法を理解するための方法について考えを述べている。

『詩の授業 理論と方法』は次のように10の項目に分けて構成されている(2)。

① 視点

② 文字でつづられた芸術―詩

③ ことばのふしぎさ

④ 声喩のおもしろさ

⑤ 比喩がつくる世界

⑥ 構造―もっとも基本的な類比と対比

⑦ 類比・対比が生み出す深いイメージ

⑧ 文芸の美―ユーモア

⑨ 文芸の美―ファンタジー

⑩ 詩における美の構造―真と美

 では西郷竹彦の主張・提言の概要を整理し,西郷の取り上げている詩の技法にはどのようなものがあるかを抽出してみよう。

①「視点」では,主に詩における視点人物の条件の重要性について述べている。つまりその詩の語り手がどのような人物として設定してあるかを確認することの大切さである。また,題名の重要性にもふれ,題名は詩のゼロ行であると主張している。

②「文字でつづられた芸術―詩」では,詩はことば(文字)を使ってつくられた芸術であり,どういうことば・文字を使っていくかが非常に大切な要素であると述べている。特に,漢字とひらがな・カタカナが生み出す効果の重要性について持論を展開している。また続け書きと分かち書きの効果や,句読点の有無によって生まれる効果についても言及している。

③「ことばのふしぎさ」では,ことばのはたらきの中でも特に同音異義語の面白さについて述べている。同音異義語の面白さは「どちらにもとれる」点であり,「どちらかにとる」ではなく「どちらにもとる」ことが,詩を読み味わう上で重要だと述べている。

④「声喩のおもしろさ」では,詩における擬態語と擬声語の役割について述べられている。西郷は音声の感じで何かを表現することばを全て「声喩」と定義し,詩における声喩の重要性を主張している。

⑤「比喩がつくる世界」では,比喩表現の重要性について述べている。文芸作品は全て人間や人生,世の中をたとえたものであると西郷は主張し,現実をふまえ現実をこえる読みを可能にするのが比喩のはたらきだとしている。比喩は虚構をつくり,虚構は日常的な意味をこえて思想的な意味を見出すための技法であるとしている。

⑥「構造―もっとも基本的な類比と対比」では,詩の構造の最も基本的なものとして「類比・対比」を挙げ,「反復(くり返し)」が詩の構造の重要な要素であると述べている。

⑦「類比・対比が生み出す深いイメージ」では,類比・対比は虚構の方法であり,類比・対比は非常に重要な方法の一つであると述べている。特に,「類比であると同時に対比である」という読み方をしたときに生み出されるイメージの重要性を強調している。

すなわち詩の中に表現されている「矛盾」をとらえることが重要だということである。たとえば「値打ちがないと同時に値打ちがあるという見方」をすることが大切であり,そのような読み方をすることによって,虚構である詩の世界において表現された真実が,美(おもしろさや味わい)として表現されると西郷は主張する。

⑧「文芸の美―ユーモア」と⑨「文芸の美―ファンタジー」では,特に詩の技法についての記述はないが,詩をいくつか引用しながら虚構論について再確認をしている。すなわち,詩は「ことばの芸術」であり「現実をふまえて現実をこえる世界=虚構」を描いたものであり,「人間の真実を美として表現したもの」であるという理論のことである。そして,虚構における「美」とは、「おもしろさ」や「味わい」のことであると再び述べている。

またファンタジー的な作品については,現実をふまえながら幻想・非現実という方法で現実を超えたものであると説明し,このような作品は理想から現実を逆に照射する役割を果たすと述べている。だから詩には自分の心の姿を映す効果があると論じている。

⑩「詩における美の構造―真と美」では,詩を読む際の留意点を述べている。詩を読む時に大切なことは,詩の世界にこめられた人間の真実と美(おもしろさや味わい)を捉えることであり,その美がどのような詩の技法を用いて表現されているかを理解することであると,西郷は改めて強調している。そして詩のおもしろさや味わいは,作品と読者の対話の中に生まれてくるものであるから,対話の仕方がまずいと出てこないと述べている。

以上の記述を踏まえて,西郷竹彦が取り上げている詩の技法を次のように抽出する。

 ・ 視点人物の条件

 ・ 題名

 ・ 文字(漢字とひらがな・カタカナ)

 ・ 続け書きと分かち書き

 ・ 句読点の有無

 ・ 同音異義語

 ・ 声喩(擬態語と擬声語)

 ・ 比喩(直喩・暗喩・擬人法)

 ・ 類比・対比

 ・ 反復(くり返し)

 ・ 矛盾(類比であると同時に対比・対比であると同時に類比)

 ではこれらの詩の技法を指導するために,どのような授業を展開していけばよいのだろうか。西郷は,詩の授業が「様子と気持ちの読み取りで終わりという授業になりがち」であることを憂い,詩の真と美を読者自らが発見し創造していく授業への転換を提言した。そして様々な詩の授業を試みてきた。その授業の方式は,「展開法」と「層序法」の二つに大別される。

「展開法」とは,始めの1行から終わりの1行まで順を追ってそのイメージと意味を追っていく方式である。すなわち詩を題名から1行ずつ板書していき,その先を想像させながら読ませていく方式である。全ての詩に活用できるわけではないが,児童の想像力を養うという点において有効であり,暗唱させるという点においても効果的な方法だと筆者は捉えている。

「層序法」とは詩全体を相手どって,表現の表層面から次第に深い象徴的なものにまで到るという方式である。まず詩の形を見て,使われている詩の技法に気づかせながら詩の描く真と美に迫っていくという方式である。教室で通常行われている詩の鑑賞指導の形式により近いと言える。したがって「様子と気持ちの読み取りで終わりという授業」にならないようにするために,指導者側の綿密な教材研究が必要である。

この二つの方式には一長一短あり,詩教材によって,あるいは学年・学級の実態に応じて,どちらを選ぶかを判断すると西郷は述べている。場合によっては「展開法」と「層序法」の「折衷法」という方式を採用することもあるとしている。

西郷はこれらの方式を用いながら,詩の技法を読み取り,詩のおもしろさや味わいを捉えるための授業を数多く実践し,検証してきた。具体例として,筆者が西郷竹彦の実践記録(3)をもとに実践してきた「展開法」の授業があるので紹介する。「かたつむり」という詩を教材に用い,小学校中学年を対象に想定した授業がある。

この授業は,2013(平成25)年10月に笠間市立大原小学校4年1組において,笠間市教育委員会主催「授業づくり研修会」の示範授業として筆者が提案したものである。この「かたつむり」の授業は,前述の「豊かな言語感覚を養う指導の在り方~詩の創作指導を通して~(4年間の継続研究から)」の中で実施して以来,何度となく実践を積み重ね改良を加えてきたものである。

 「かたつむり」は,8連構成の口語自由詩である。奇数連と偶数連での語り手が異なっており,そのかけ合いのおもしろさが児童の興味をひく詩である。リズムが整っていて音読しやすく,暗唱教材としても適している。また,マイナス面をプラスとして捉えるものの見方・考え方について考えを深める教材として有効である。「かたつむり」の全文は次のようになる。

 

     かたつむり 

             リュー・ユイ作

             いでさわ まきと・やく

 

   かたつむり

   おかしいな 

    目玉が つのの上にある 

  

   おかしくない 

   おかしくない 

    目玉が 上ならよく見える 

  

   かたつむり 

   おかしいな 

    おうちをしょって 歩いてる 

  

   おかしくない 

   おかしくない 

    てきにあったら もぐりこむ 

  

   かたつむり 

   おかしいな 

    おなかがそっくり 足になる 

  

   おかしくない 

   おかしくない 

    足が大きけりゃ あんぜんだ 

  

   かたつむり 

   のろいなあ 

    動かないのと 同じだ 

  

   のろくたって 

   のろくたって 

    とまらなけりゃいいんだよ

 この授業の目標は「詩の全文を暗唱すること」「想像力を働かせながら詩を読み,語り手のものの見方・考え方について感じたことや考えたことを表現すること」の二点とした。そして授業仮説は,「展開法を用いて音読すれば,暗唱できるようになるであろう」「展開法を用いて詩を読めば,ものの見方・考え方を豊かにすることができるであろう」の二点とした。読み取らせたい詩の技法は「視点人物の条件」「類比・対比」「反復」とした。

 授業は概ね次のような流れで行った。

  ① 本時の課題「詩を読み,感じたことや考えたことを発表しよう」を確認する。

  ② 第1連と第2連を読む。(視点人物の条件を確認)

  ③ 第3連と第4連を読む。(続きを想像させながら読む)

  ④ 第5連と第6連を読む。(かけ合いのおもしろさを読む)

  ⑤ 第7連と第8連を読む。(マイナス面をプラスと捉えるものの見方・考え方を読む)

  ⑥ 詩を音読・暗唱する。(役割分担をしながら読む。詩を少しずつ消しながら読む)

  ⑦ 詩を読んでの感想を書き,発表する。(人間の真実と美を捉える)

「層序法」の授業については,「かぼちゃのつるが」を用いた授業がある。この「かぼちゃのつるが」の授業は,「かたつむり」の授業と同様に西郷竹彦の授業記録(4)を参考にしながら「豊かな言語感覚を養う指導の在り方~詩の創作指導を通して~(4年間の継続研究から)」の中で筆者が実施したものである。

「かぼちゃのつるが」は1連18行構成の口語自由詩である。詩の形の一例として,句読点がなく切れ目が最後までないという特徴を児童に紹介できる作品である。リズムがよく音読しやすいため,暗唱教材としても適している。また,詩の技法「くり返し」や「擬人法」を読み取ることを通して,語り手の願いや思いをつかみやすい詩である。理科の学習との関連指導も図ることが可能である。「かぼちゃのつるが」の全文は次のようになる。

 

     かぼちゃのつるが

                   原田直友

 

   かぼちゃのつるが

   はい上がり

   はい上がり

   葉をひろげ

   葉をひろげ

   はい上がり

   葉をひろげ

   細い先は

   竹をしっかりにぎって

   屋根の上に

   はい上がり

   短くなった竹の上に

   はい上がり

   小さなその先たんは

   いっせいに

   赤子のような手を開いて

   ああ 今

   空をつかもうとしている

この授業で読み取らせたい詩の技法は「反復」と「比喩(擬人法)」とした。そして詩における「題名」の意味も考えさせたいと考えた。そしてこれらの詩の技法を理解することを通して語り手の願いや思いをつかみ,人間の真実と美を捉えさせたいと考えた。

授業は概ね次のような流れで行った。

  ① 本時の課題「詩を読み、感じたことや考えたことを発表しよう」を確認する。

  ② 詩の全文を音読し形式を捉える。(句読点がなく切れ目がないという形式を知る)

  ③ 題名の意味を考える。(「が」の有無による違いを考える)

  ④ 詩の形式から気付いたことを発表する。(「反復」「擬人法」を捉える)

  ⑤ 詩の技法から語り手の願いや思いをつかむ。(強調している内容を読む)

  ⑥ 詩を音読・暗唱する。(役割分担をしながら読む。詩を少しずつ消しながら読む)

  ⑦ 詩を読んでの感想を書き、発表する。(人間の真実と美を捉える)

なお両者の比較検討をするための資料として「かたつむり」の指導略案(5)と「かぼちゃのつるが」の指導略案(6)を本論文の末尾に資料として添付する。

さらに「折衷法」の授業については「小鳥がはじめてとんだとき」(原田直友作)の実践がある。これは第六章において後述する。

 ではこれまでの記述を踏まえ,次節において詩の受容指導の在り方についてまとめる。

 

第三節 まとめ

前節では西郷竹彦の実践分析を通して,詩の受容指導において重要だと思われる詩の技法と,詩の技法を理解するための授業の方式について考察した。本節ではそれを踏まえ,詩の受容指導の在り方についてまとめる。

 前節において,詩の受容指導において重要視すべき詩の技法を次のように抽出した。

 ・ 視点人物の条件

 ・ 題名

 ・ 文字(漢字とひらがな・カタカナ)

 ・ 続け書きと分かち書き

 ・ 句読点の有無

 ・ 同音異義語

 ・ 声喩(擬態語と擬声語)

 ・ 比喩(直喩・暗喩・擬人法)

 ・ 類比・対比

 ・ 反復(くり返し)

 ・ 矛盾(類比であると同時に対比・対比であると同時に類比)

そこで以上の詩の技法を本研究においても重要視するものとする。そしてこれらの詩の技法を西郷竹彦の提唱する詩の授業の方式「展開法」や「層序法」等を用いて理解させ,詩のおもしろさや味わいを捉えさせることを,本研究における詩の受容指導と定義する。したがって詩の受容指導の充実を図ることを,本研究においては次のように捉える。

 ・ 詩教材及び児童の発達段階や実態をふまえた詩の授業を展開すること

 ・ 詩を読む活動を通して詩の技法を理解させること

 ・ 詩の技法を理解させることを通して詩のおもしろさや味わいを捉えさせること

 このような指導をすることによって,詩の受容指導は「想像力を養う詩の創作指導」の柱の一つになると考える。

 次章では,本研究の土台となる詩と日記指導との関連について述べる。

 

【注】第三章

(1)  西郷竹彦編『詩の授業・理論と方法』1998(平成10)年,6,明治図書。

(2)  (1)に同じ。

(3)  西郷竹彦編『詩の授業(西郷竹彦授業記録集⑤)』1991(平成3)年,8,明治図書。

(4)  (3)に同じ。

(5) 「かたつむり」(展開法)の指導略案(末尾資料2頁)。

(6) 「かぼちゃのつるが」(層序法)の指導略案(末尾資料3頁)。

 

 

第四章 詩と日記指導

第一章において,「詩の創作指導」が「詩の環境づくり」「詩の受容指導」「日記指導」と密接に関わり,それら全てを一体として捉えたものを本研究における「想像力を養う詩の創作指導」とすると定義した。それをふまえ,第二章では「詩の環境づくり」,第三章では「詩の受容指導」の在り方について考察してきた。そこで本章では,「日記指導」の在り方について述べる。

 

第一節 日記指導の目的と意義

本節では,日記指導の目的と意義について日記指導の定義を明らかにしながら論述を進める。そして日記指導と詩の創作指導との関連についても考察していく。

では日記指導は国語教育の中でどのように定義されているのだろうか。『国語科重要用語300の基礎知識』『国語教育辞典』『国語教育総合事典』から抽出することを通して検討してみたい。

まず『国語教育総合事典』では,日記指導について次のように定義している(1)。

日記(日誌)指導は,書くことの学習指導において,一定期間定期的に日々の生活を対象として,子どもが興味や関心をもったり感動したりしたことをひとまとまりの文章として表現することを指導する活動のことをいう。(中略)これらの学習を通して,文・文章を表現する能力,言語事項に関わる知識とそれを活用する能力,さらには生活に関わる事象や諸関係,人間(自他)への理解力などが育成される。

 ここでは日記指導の目的の一つとして,文章を表現する能力を育成することが挙げられている。また「生活を対象とし,感動したことを文章として表現すること」は,第五章第三節において後述する「児童生活詩」の手法と共通する部分がある。日記指導と詩の創作指導との関連がここから見えてくる。

次に『国語科重要用語三〇〇の基礎知識』では,日記指導の意義について次のように述べられている(2)。

書くことが習慣化すれば,そのおもしろさみを自得して,内省こそ向上への鍵だと確信をもてるようになるため,小学校の早い時期から取り組まれることが多い。時おり設定する作文単元以上に,継続的な日記によって書くことへの基本的な態度と能力が養われるとも言えよう。

 日記指導を継続していくことは,単発的な作文指導を行うことよりも児童の文章表現力を育成する上で有効であることが示唆されている。そして書くことが習慣化すれば,書くことへの基本的な態度と能力が養われるとしている。したがって普段から文章を書き慣れていれば,児童は自分の思いを言葉で表現することができるようになると考えられる。

 また『国語教育辞典』では日記指導の意義を次のように述べている(3)。

日記は個人的なものであるが,文章表現指導における日記指導となると個人的な範囲から一歩踏み出す。日記は読み手である教師を意識して書かれている。それは教師と子どもとの心の交流を促す。子どもが書いた文章に教師が書く。その継続の集積で教師は子どもと心のつながりを育てることができる。さらに教師の書く評語の書き方によって文章の表現指導,内容の指導を直接間接にすることができる。その効用に着目して多くの実践家が日記を活用してきた。

 日記指導は教師と子どもとの心の交流を促すものであり,それを継続することで教師は子どもと心のつながりを育てることができるとしている。そして,教師の書く評語によって文章の表現や内容の指導をすることができるとしている。

そして具体的な日記指導の進め方については,前掲の『国語教育総合事典』で次のようなことが言われている(4)。

日記指導は,小学校の各学年で行われる。しかし,一年生の場合は充分に文字を覚えていないために,絵日記の指導から始まる。しかし,その前に「絵日記以前の指導」として「まず,子どもたちを解放し,だれでも自由に発言したり,表現したりできる学級のふんいきを作り出すことが必要となる。また,子どもたちに,生活の中で心を動かすことも覚えさせなければならないし,文字指導も当然行わなければならない。」という指導がある。(中略)しかし,日記指導へ移行したからといって,絵日記の指導で行っていたことを大きく変更することはない。あくまで生活の中で心が動いたことを,相手を意識して文・文章でありのままに表現することを求め,日記に赤ペン評語を書いたり,それを文集に掲載したり,学級で読み合ったりして,書き表し方や生活のしぶりについて学習させていけばよいのである。

 この部分からは,赤ペン評語によって教師と子どもとの交流を図ったり文章の表現指導をしたりすることだけでなく,自由に発言したり表現したりできる学級の雰囲気づくりをすることや,文集に掲載したり学級で読み合ったりすることなども通して日記指導を進めていくことが重要であるということが読み取れる。

また「生活の中で心が動いたことを,相手を意識して文・文章でありのままに表現すること」は,先にも述べた「児童生活詩」の手法と共通するものである。日記指導を進めていくことは,詩の創作指導にも有効に働くものと考えられる。

 さらに,日記指導の優れた先行実践として次のようなものを挙げている(5)。

青森県の教員であった津田八洲男は,「子どもを知る」ためだけでなく「子どもの心を耕す」ために,日記指導を重視した。津田は,子ども達に二冊の日記帳を持たせ,日記を書いた翌日の中休みの時間に交互に提出させながら,原則として毎日日記を書かせた。そして日記を書かせるにあたって,まず第一に行ったことは,「まず,どんなことを書いてもよいと知らせる」ことだった。自分を表したがらない子どもが増えている状況の中で,内面を解放してやる必要があると考えたからである。(中略)次に,津田が行ったのは,「心のふるえを」書かせることだった。そのために,教員である自分を対象にして書かせた。(中略)さらに,「自分のしたことで心をふるえたこと」を書かせ,「日常の生活から学ばせる」ために,親の理解も得ながら,学級で起きた問題なども,日記から拾い,一枚文集に掲載して,学級で読み合った。(中略)津田は,一人の子どもの喜びや悲しみ,発見,すばらしい行動などを,学級のものにするために,赤ペン評語を書くだけでなく,学級で日記を読んだり,一枚文集に掲載したり,教材にしたりして,子どもの心と文章表現の力を育てたのである。

 2冊の日記帳を持たせ原則として毎日日記を書かせるという指導は,教師にも児童にも負担が大きく現実的ではないと筆者は考えるが,「子どもの内面を解放」させること,「心のふるえを」書かせることなどについては,本研究における詩の創作指導とも関わる部分があるので共感できる。また,日記で表現されている感動を一人のものだけでなく学級のものにするという点についても同意する。日記で表現されている優れた文章を,学級で紹介したり文集に掲載したり教材にしたりすることは,児童の心と文章表現力を育成するために有効に働くものと考える。同様に,詩によって表現された感動を一人のものだけでなく学級のものにするということに関しても,意義のあることだと考える。

 ではこのような日記指導を進めていくにあたり,どのような課題があるのだろうか。次節において述べる。

 

第二節 日記指導に関わる課題

本節では,日記指導に関わる課題を分析することを通して,日記指導の留意点と可能性を考察する。

筆者にとって日記指導は,今まで積極的に取り組むべき課題ではなかった。先輩や同僚の影響を受けて継続的に取り組んだ年もあったし,全く取り組まなかった年もあった。宿題として毎日の提出を義務づけた年もあったし,自主学習の枠組みの中で任意に取り組ませた年もあった。特に提出は求めず希望者のみに取り組ませた年もあった。

積極的に取り組むべき課題として捉えなかった理由は,筆者自身が日記指導を行う目的を明確に設定できず,その意義を見出すことも難しかったからである。勿論,日記指導を充実させることによって児童との交流を図ったり,児童の思いや願いを把握して学級経営に生かしたり,児童の表現力を高めたりすることができるだろうという漠然とした思いはあった。児童の生活の様子をつかんで学級の問題の早期発見に役立つという効果も期待できるだろうと思っていた。

しかし宿題や自主学習との兼ね合いやバランスを考慮すると,教師にとっても児童にとっても負担の大きい日記指導をそれほど重要視することはできない状況にあった。日記とはそもそも自分のために書くものであり,強制されて書くものではなく任意に取り組むべきものという認識もあった。とりわけ日記指導に重点をおかなくても,国語科の授業の中で書く力を高めることができればよいと考えていた。

 また日記指導の実施上の問題点としては,学級全体の統一した課題にすることが難しいということがある。

日記を宿題として毎日の提出を義務づける場合には統一した課題になり得るが,その取り組ませ方によっては児童の意欲や態度に個人差が出やすく,途中で書く意欲を失う児童が多数出てくる。学習塾や習い事等で夜まで多忙な現代の児童にとって,日記を毎日書くことは負担が大きい。日記を書く意義を見出せない児童にとって,日記を書くことを強制されるのは苦痛でしかない。無論,日々多忙な現代の教師にとっても日記指導は負担が大きい。学級の児童全員の日記にコメントを入れるのは負担が大きく,毎日となると目を通すだけで精一杯というのが現状である。教師のコメントがおざなりになれば,児童は次第に書く意欲を失っていく。

 一方,日記を自主学習という扱いにして提出を任意にした場合は,必然的に日記に関心の高い,すなわち日記を書く意義を見出すことのできた一部の限られた児童しか取り組まなくなるという状況が表れる。教師はその数少ない日記に対しては丁寧にコメントを返すことができるので,書く児童はますます書く意欲が高まり文章による表現力も増していく傾向があるが,書かない児童は全く書かないままの状態で意欲や表現力の向上も見られないという二極化現象が見られるようになっていく。

 以上のことから,日記指導を効果的に行うためには,その目的を明確にし,その意義を教師が見出して児童に伝えていく必要があるということがわかる。また学級の児童全員に取り組ませるには,負担感を抱かせないような指導上の工夫が大切であることもわかる。

では,日記指導が詩の創作指導の土台となり得るのではないかと考え始めたきっかけは何か。それは児童に詩を書かせるための方法論を探る過程で,筆者自身の詩を書くに至るまでの過程に興味をもったことから始まった。

筆者が初めて日記を継続して書いたのは小学5年生の時であった。当時の学級担任が日記指導を重視する教師だったのである。この時,筆者は自分の思いを言葉で表現する楽しさを知った。つまり日記を書く意義を見出すことのできた児童だったわけである。日記帳は一年間で数冊に及んだ。この日記は今でも大事に保管してある。今にして思えば,担任教師のコメントが嬉しくて書いていた。教師のコメントが,児童の書く意欲を持続させる上で重要だということがわかる。そして,今でも忘れられないコメントがある。「今日の日記は詩のようなリズムがありますね。」その当時,筆者が詩というものを理解していたとは思えないが,このコメントを見たとき非常に嬉しく感じたことを覚えている。筆者はその時からリズムを整えて文章を書くことを重視するようになったと覚えている。詩の世界に本格的にふれるようになったのは大学生時代からだが,詩に興味をもつ下地はここから作られていたのではないかと思う。しかしながら6年生の担任が特に日記指導を重視する教師ではなかったため,この初めての日記は1年間で終了した。小学生段階では日記を書く意欲を持続させるために,教師の支援の在り方が大きく関わっていることが推測される。

大学生時代では「近代文学演習」という授業の中で,詩の形式や方法を分析し読み味わう楽しさを知った。そして自分の思いを詩で表す楽しさを知った。思いをより効果的に表現するために言葉の吟味を行う態度が育った。

教師となってから9年目,日々の生活で感じたことや教育に対する思いなどを書きたい,伝えたいという思いが強くなり小学5年生以来の日記を再開した。自分のホームページを作成しネット上で日記を書き始めたのである。2004(平成16)年7月24日のことであった。この日記は現在も続けており、始めてから8年が過ぎている。初めは自分のためだけにこの日記を書いていたが,ホームページ上の掲示板に感想が寄せられるようになり,読者との交流が始まった。次第に読者の反応が楽しみになり,書くことへの意欲が日に日に高まっていった。そしてある出来事を境に,日々の新たな発見の感動を書かずにはおれなくなった。そして読者の感想が聞きたい,反応が知りたいと強く思うようになった。つまり日記は自分のためでなく,相手意識をもって書くようになっていたのである。そこで日記をブログという形式に変更した。そして,この日記を簡単に読み流して欲しくないと思うようになり,言葉に重みを与えたい,もっと強調したいと考え,詩的な表現(体言止め・反復・倒置・比喩・行がえなど)を積極的に使用するようになっていた。そして,文章では思いを伝えきれないと感じ,詩として表現したいと思うようになったのである。その背景には,この感動を自分独りだけの経験で終わらせたくない,一般化したいという願いがあった。

以上,筆者自身の詩を書くに至るまでの経緯を分析してみた。日記指導を行う際は,児童の書く意欲を持続させるために,教師のコメントによる励ましや支援の手立てが大切であることがわかる。そして日記で文章を書くことに慣れ,相手意識が芽生えてくれば,もっと書きたい,伝えたいという気持ちが高まるのではないかと予測する。さらに児童自身の感動体験があり,その表現に対する読者の反応があれば自分の思いをさらに効果的に伝えたいという気持ちが生まれ,言葉を大切にしようとする態度が養われるのではないかと考える。そして言葉を大切にするための詩の技法を指導していけば,詩の創作につなげられるのではないか。すなわち日記に書かれている内容は,詩の素材となり得る可能性があるのではないかということである。

本節では日記指導に関わる課題から,日記指導の留意点と可能性について述べた。では次節において,日記指導の目的と意義及び留意点と可能性についてまとめる。

 

第三節 まとめ

前節までの記述を踏まえ,日記指導の目的と意義について次のようにまとめる。

日記指導の目的

  ・ 日々の生活を対象として,児童が興味や関心をもったり感動したりしたことを定期的にひとまとまりの文章として表現することを指導し,文章を表現する能力を育成する。

日記指導の意義

  ・ 教師と児童との心の交流を促し,心のつながりを育てることができる。

  ・ 書くことが習慣化し,書くことへの基本的な態度と能力が養われる。

  ・ 教師の書く評語によって文章の表現や内容の指導をすることができる。

  ・ 児童の内面を解放させ,心のふるえを書かせることが期待できる。

  ・ 日記で表現された文章を何らかの形で紹介することを通して,児童の心と文章表現力を育成することができる。

  ・ 生活を対象とし,感動したことを文章として表現することを通して詩の創作につなげることができる。

そして,日記指導の留意点と可能性について次のように捉える。

日記指導の留意点

  ・ 目的と意義を明確にして児童に伝えることが重要である。

  ・ 負担感をもたせないように取り組ませることが大切である。

  ・ 書く意欲を持続させるための教師の手立てが必要である。

  ・ 書かせる際には相手意識をもたせることが重要である。

  ・ 児童自身の発見や感動をことばで表現させることを重視する必要がある。

  ・ 書かれた内容には必ず反応を示すことが大切である。

  ・ 言葉を大切にしようとする意識をもたせることが大切である。

日記指導の可能性

  ・ 日記指導は,詩の創作指導の充実に必要な前提となり得る。

  ・ 日記に書かれている内容は,詩の素材となり得る。

前述したように,詩の創作指導を充実させるために必要な前提として「詩に親しむ環境があること」「詩を読む活動が充実していること」「普段から文章を書き慣れていること」の三つを本研究では掲げている。日記指導は三つ目の前提「普段から文章を書き慣れていること」に関わる。日記指導を通して,児童が普段から文章を書き慣れていれば,児童は自分の思いを言葉で表現できるようになるであろうと考える。そして,日記指導を継続していく過程で相手意識が芽生えてくれば,書きたい,伝えたいという気持ちが高まるのではないかと予測する。自分の思いを書きたい,伝えたいという思いが高まらなければ,詩の創作指導を進めることは難しい。したがって,日記指導は詩の創作指導の充実に必要な前提の一つであり、本研究の土台になるものと本研究では捉える。

また児童に書かせたい詩の姿を「想像力(見えないものを見る力)を発揮して発見したものを言葉で表現したもの」と本研究では定義している。児童は日々の生活から発見した感動を日記の中で表現していく。そしてその表現に対する反応があれば,児童は自分の思いをもっと書きたいと考えるようになる。さらに自分の思いをより効果的に書こうとするために,言葉を大切にしようとする態度が養われる。そこに前述の「詩に親しむ環境があること」「詩を読む活動が充実していること」が満たされれば,日記を書いたり読み返したりする過程でその言葉の中から新たな発見をし,新たな感動を覚えるという経験をすることができるのではないか。そしてその感動を他者に伝えたいという思いも高まっていくのではないかと考える。ここに教師の手立てが入れば,児童が日記を詩として表現してみようとする態度が生まれてくるのではないかと予想する。すなわち日記に書かれている内容は,詩の素材となり得る可能性があるということである。

 日記を素材として書かせたい詩のイメージを図で示すと次のようになる。

以上,本章までにおいて「詩の環境づくり」「詩の受容指導」「日記指導」の在り方について述べてきた。次章では本研究の核となる「詩の創作指導」の在り方について述べる。

 

【注】第四章

(1) 大槻和夫編『国語科重要用語300の基礎知識』Ⅳ書くことの指導 194日記(前田真証)2001(平成13)年,5,明治図書。

(2)  日本国語教育学会編『国語教育辞典』日記(3.3.8)(武西良和)2001(平成13)年,8,朝倉書店。

(3) 日本国語教育学会編『国語教育総合事典』〈書くこと〉17.日記、日誌(梶村光郎)2011(平成13)年,12,朝倉書店。

(4) (3)に同じ。

(5)  (3)に同じ。

 

 

第五章 詩の創作指導

 本章では,詩の創作指導の在り方について述べる。

 本研究では,序章において詩の創作指導の目的と意義を明らかにした。第一章では詩と想像力との関連について考察し,構造図を示しながら本研究の全体構想を述べた。そして詩に親しむための環境づくりを進めることや,詩の受容指導と日記指導を充実させることが詩の創作指導に関わることを説明し,その重要性を示した。それをふまえ,第二章では詩に親しむための環境づくりの在り方,第三章では詩の受容指導の在り方,第四章では日記指導の在り方それぞれについて述べた。

そこで本章では,それらを踏まえた詩の創作指導の在り方を論述していきたい。

第一節では詩の創作指導における現状と課題について述べ,詩の創作指導の充実に必要な前提(※以下「必要な前提」)と詩の創作指導の実践において必要な条件(※以下「必要な条件」)について考察していく。第二節では青木幹勇実践「すずめ」の授業分析から得られた成果と課題を述べ,詩の創作指導に「必要な前提」と「必要な条件」について再確認する。第三節では弥吉菅一の『日本児童詩教育の歴史的研究』を手がかりに日本の児童詩教育の歴史的変遷をたどり,今後の詩の創作指導の在り方について述べる。第四節では足立悦男論文「異化の詩教育学」における山際鈴子実践の分析を通して,現時点での日本児童詩教育の到達点を示す。第五節では以上を踏まえた詩の創作指導の在り方について総括する。

 

第一節 詩の創作指導の現状と課題

 前章までに,詩に親しむための環境づくりと詩の受容指導・日記指導が詩の創作指導に密接に関わることを説明し,その重要性を示した。そして次の三つが詩の創作指導の充実に「必要な前提」であると述べた。

詩の創作指導の充実に「必要な前提」

・ 普段から詩に親しむ環境があること

・ 詩を読む活動が充実していること

・ 普段から文章を書き慣れていること

 この三つが果たして本当に「必要な前提」となり得るかという点を,現状と課題の分析を通して明らかにする。さらに詩の創作指導の実践に「必要な条件」とはどのようなものがあるかを考察していく。

次項からは過去の経験から見える現状と課題,アンケート調査から見える現状と課題,教科書教材から見える現状と課題について,それぞれ項目を立てて論述していく。

 

1 過去の経験から見える現状と課題

本項では,筆者自身の過去の経験から見える現状と課題を述べる。筆者は1996(平成8)年~1999(平成11)年に,新治郡八郷町立林小学校(現石岡市立)において「感性を磨く詩の創作指導」と題した研究を行った。その実践上の問題点を挙げることを通して現状を振り返り課題を明らかにしたい。

実践上の問題点の一つ目は,詩の創作指導の目的と意義が不明瞭であったということが挙げられる。当時の筆者には,何のために詩を書かせるのかという点が明確に把握できていなかった。「感性を磨く」という目的を掲げてはいたが,感性の高まった児童の姿を捉えることができなかった。後に研究題目を「言語感覚を養う詩の創作指導の在り方」と変えたが,言語感覚を豊かにすることでどのような児童の姿を期待するのかを検証することが不十分であった。

また,どのような詩を書かせたいのか,詩を書かせることでどのような力を児童に身につけさせたいのかが明確でなかった。目的意識が曖昧なため教師側の意図がうまく伝わらないため,詩を書くことの意義を見出すことができず苦手意識をもつ児童が少なからず存在していた。

二つ目は,創作指導の方法論が定まっていなかったということである。筆者の当時の創作指導の方法は,松本利昭の「たいなあ詩」理論を参考にしていた。「たいなあ詩」とは主体的児童詩とも呼ばれ、児童の主体性の確立・想像力の育成を目的とした詩の創作指導理論である。ポエジーの開発には成功したが教育性を否定していたため,教育現場では次第に衰退していった理論だと言われている。このことについては第五章第三節において詳述する。また対立する理論だとは知らずに日本作文の会が提唱する「生活詩」の理論(自分の生活を振り返り強く感じたことを見たまま・ありのままに書く。)も取り入れて指導にあたっていた。方法論が曖昧なため児童作品は玉石混交であり,書ける子は書けるが書けない子は全く書けないという状態であった。第二章において述べた 卯月啓子の「アンソロジー(名詩選)づくり」を参考にして詩に親しむ環境づくりを行っていたので,それを参考に詩を書いている児童は多かった。書けない児童にもモデルとなる詩を提示し,真似をさせれば詩を書かせることができた。モデルとなる詩の提示は詩の創作指導に有効な手段であると考えられる。

「春の花」を素材として詩を書かせたこともあった。一時間目は校庭に出て好きな花のスケッチを行い,二時間目に彩色をして言葉を添えるというただそれだけの活動である。今にして思えば第五章第三節において述べる感覚的写生詩の方法論を参考にしたものであったかもしれない。これは四月の学級環境を整えるためのものという意味合いが強く,児童の感性を磨く・言語感覚を養うという目的意識は無いに等しかったが,みなそれぞれに味わいのある作品を完成させた。これはすなわち「春の花」という季節を感じる素材が児童の興味・関心を高めるものであり,スケッチをするという活動がその素材の情報を取り入れる有効な取材活動であったからだと言える。

ただし教師の手立てとしては「見たまま書きなさい。感じたまま書きなさい。」という助言を与えただけであったので,その詩に深まりが見られるかどうかは児童の言語経験に左右された。普段から文章を書き慣れている児童とそうでない児童でも差が見られた。なかなか書き出せない児童には,モデルとなる詩を提示し真似をさせることで作品を完成させた。

三つ目は,詩の創作指導は一部の詩に興味のある教師によるものであったということである。当時,詩の創作指導という研究テーマを掲げて研究発表を行う者は珍しく,その目的と意義について疑問をもつ教師も多かった。つまり国語ではもっと大事な指導事項があるだろうという見方である。筆者も目的と意義を明確にできないまま詩の創作指導を行っていた。

しかし学習指導要領の言語活動例に詩の創作指導が明記された今,教師は詩の創作指導という課題を真摯に受け止めねばならないと思う。言語活動例はあくまで例であり必ず指導しなければならないものではないが,現実問題として教科書に詩の創作指導の単元が採用されている現状を考えると、避けて通れない道であると考える。

 以上のことを踏まえて見えてくる課題は次のようになる。

 詩の創作指導における目的と意義を教師が明確に把握し,児童生徒にも伝えなければならない。また教師が詩の創作指導の方法論を身につける必要がある。

モデルとなる詩の提示は詩の創作指導に有効な手段である。そして詩の素材が児童の興味・関心をひくものであることが大切である。さらにその素材についての情報を得るための取材活動が必要である。

 詩の創作指導は一部の教師が実践するものであったが,学習指導要領の改訂を受け全ての教師が取り組んでいくべき課題となった。詩の指導の目的と意義を再認識し,詩の創作指導の方法論を学ばねばならない。

 

2 アンケート調査から見える現状と課題

 本項ではアンケート調査から見える現状と課題を述べる。

このアンケートは,第一章において述べたように「詩の創作指導」について教員が抱えている課題を調査するために,2012(平成24)年から2013(平成25)年にかけて実施したものである。調査対象は,茨城大学に内地留学をしていた国語を専門とする教員及び笠間市内の小中学校で国語を指導している教員とした。詩の指導に関わる項目を集計したところ次のような結果が出た(1)。

  ・ あなたは「詩」を読むことが好きですか。(好き33人 やや好き82人 やや嫌い16人 嫌い1人)

  ・ あなたは「詩」の指導が得意ですか。(得意1人 やや得意22人 やや苦手86人 苦手34人)

  ・ あなたは「詩」を書いたことがありますか。(ある113人 ない25人)

  ・ あなたは「詩」を児童に書かせたことがありますか。(ある138人 ない10人)

  ・ あなたは「詩」のコンクールに指導した児童の詩を応募したことがありますか。(ある50人 ない98人)

  ・ あなたが「詩」の授業で感じている課題は何ですか。(鑑賞指導の方法がわからない62人 創作指導の方法がわからない75人 など)

以上の結果から次のような現状が考察できる。

一つ目は,自分で詩を読むことは好きだが,児童生徒に詩の指導をすることはやや苦手としている教師が多いということである。つまり,詩のよさは理解していても教える方法がわからないという教師の実態が明らかになる。

二つ目は,自分で詩を書いた経験があり児童生徒に詩を書かせた経験もあるが,その具体的な指導法がわからない教師が多いということである。またコンクールに応募するために書かせる例もあるということがわかる。裏を返せば,創作指導の方法がわからないまま児童生徒に詩を書かせている現状があり,それでよしとしている実態があるということである。

「詩」に関する自由記述を見ても「詩は世界観が漠然としていて難しい」「詩は好きだが教材にするには抵抗がある」という意見があった。詩のよさはわかるが,詩の指導は難しく教材として扱うことには抵抗があるという教師の思いが表れている。

ここから見える課題の一つ目は,教師自身が詩の指導をする意義を感じていないということである。詩のよさを漠然と理解するだけでなく,その目的と意義を明確に把握していく必要がある。また児童生徒にもそれを伝えていかねばならない。詩の創作指導についても,その目的と意義を児童生徒に明確に伝えることで,書きたいという意欲を高めることができるであろうと考える。

二つ目は,具体的な指導法を身につけないまま児童生徒に詩の創作をさせているということである。確かに教師側の明確な手立てが存在しなくても,児童生徒の言語経験に依頼すれば詩を書かせることは可能かもしれない。しかし,その段階で満足していては教室で詩を扱う意義を見出すことはできない。児童生徒が主体的に言葉を吟味しながら詩を書いていけるような方法論を身につける必要がある。

 

3 教科書教材から見える現状と課題

本項では教科書教材から見える現状と課題を述べる。

新学習指導要領では言語活動例の中に詩の創作指導が明記された。それを受けて詩の創作を行う単元が教科書の中に採用された。東京書籍の教科書では小学2年・4年・6年・中学1年で位置づけられている(2)。

東京書籍の教科書における詩の創作指導に関わる単元

  ・ 小2  しを読もう かんじたことを                   

  ・ 小4  詩を読もう 連詩に挑戦しよう

  ・ 小6  詩と短歌を味わおう 表現を工夫して書こう

  ・ 中1  小さな発見を詩にしよう

小学2年生は「見たことやしたこと」を詩の素材とし,そこから感じたことを詩として表現するという内容である。4年生では「自然現象等」を素材とし連想の楽しさを味わうことを目的にしている。6年生では今までの学習を踏まえながら詩の技法を活用して書くという構成になっている。中学1年では,「小さな発見」を素材にして詩を書き,詩の技法を活用して推敲することをねらっている。これは学習指導要領の目標をふまえ,児童生徒の発達段階に合わせて構成したものと思われる。また小学2年・4年・6年に配当されている理由は,学習指導要領の構成をふまえたからだと考えられる。中学1年に配当されている理由は,2年で短歌,3年で俳句を指導するためだと考えられる。

しかし学習指導要領〔B書くこと〕の言語活動例を見ると,やや違和感を覚える部分もある(3)。

  ・ 小学1・2年 「ア 想像したことなどを文章に書くこと」

  ・ 小学3・4年 「ア 身近なこと、想像したことなどを基に詩をつくること」

  ・ 小学5・6年 「ア 経験したこと、想像したことなどを基に詩をつくること」

  ・ 中学2年    「ア 表現の仕方を工夫して詩歌をつくること」

とある。小学校では「想像したこと」がキーワードになっていることがわかる。その対応を考慮すると,もっと「想像したこと」を書くことに焦点を当ててもよいのではないか。また小学校低学年では「想像したことなど」をもとに文章や詩を書き,小学校中学年では「身近なこと」小学校高学年では「経験したこと」を素材にして詩をつくり,中学校では詩の技法を活用して「表現の工夫」をしていくというように言語活動の内容を明確に区別してもよい気がする。

また特徴的なのは,小学校ではいずれも上の教科書で詩の受容指導を行い,下の教科書で詩の創作指導を行う流れになっていることが多いということである。つまり詩の受容指導と創作指導を両輪のものとして考えていると私は捉える。詩の受容指導をさらに充実したものにしていく必要があると考える。これは他の出版社の教科書構成を見てもほぼ同様のことが言える。

ただし光村図書の教科書では,日常的に言葉を綴ったり詩に親しんだりする活動を特に重視している点が興味深い。4年生の教科書では工藤直子の「のはらうた」を素材に詩をつくらせる単元を採用しているが、その活動に至るまでに「ことばのスケッチ」を日常的に行うことを推奨している。

さらに「季節の言葉」という単元が2年生から6年生まで継続的に用意されている。季節を素材に文章を書いたり詩歌をつくったりすることをねらった単元である。各学年とも春夏秋冬の各4回あるので,小学校の6年間で20回も詩の創作に関わる活動をすることになる。

つまり光村図書は詩の創作指導が言語活動例の中に明記されたことをふまえ,普段から文章を書き慣れていることや日常的に詩に親しんでおくことが必要であると考えて教科書を作成したものと考えられる。

 以上のことを踏まえて見えてくる課題は次のようになる。

詩の創作指導は学習指導要領の言語活動例を参考にしながら児童の発達段階に応じて指導していく必要がある。そして詩の受容指導と詩の創作指導を両輪のものとして捉え,創作指導に先立って行われる受容指導の充実を図らなければならない。日常的に詩にふれて親しむ機会をもつことも重要である。日記指導等を通して,普段から文章を書き慣れていることも大切である。

以上を総括して,詩の創作指導に「必要な前提」と「必要な条件」について次のようにまとめる。

詩の創作指導の充実に必要な前提

  ・ 普段から詩に親しむ環境があること

  ・ 詩の受容指導を充実させること

  ・ 普段から文章を書き慣れていること(日記指導の充実)

詩の創作指導の実践に必要な条件

  ・ 目的と意義を明確にすること

  ・ モデルとなる詩を提示すること 

  ・ 詩の素材を吟味すること

  ・ 素材に関する取材活動を取り入れること

  ・ 詩の技法を指導すること(児童生徒の発達段階に応じて)

 構造図にまとめると次のようになる。

では,以上のような前提や条件をふまえた授業実践を通して,どのような児童詩が生まれるのだろうか。筆者はある一つの先行実践に注目した。青木幹勇の「すずめ」の授業である。なぜならこの実践は,詩の創作指導に「必要な条件」を多く備えているからである。次節では,この青木幹勇「すずめ」の授業を分析することを通して詩の創作指導の在り方に迫る。

 

第二節 青木幹勇「すずめ」の授業

前節では,詩の創作指導の現状と課題を述べることを通して,詩の創作指導に必要だと思われる前提や条件についての確認を行った。繰り返しになるが以下に列記する。

詩の創作指導の充実に必要な前提(※以下「必要な前提」)

  ・ 普段から詩に親しむ環境があること

  ・ 詩の受容指導を充実させること

  ・ 普段から文章を書き慣れていること(日記指導の充実)

詩の創作指導の実践に必要な条件(※以下「必要な条件」

  ・ 目的と意義を明確にすること

  ・ モデルとなる詩を提示すること 

  ・ 詩の素材を吟味すること

  ・ 素材に関する取材活動を取り入れること

  ・ 詩の技法を指導すること(児童生徒の発達段階に応じて)

これらの「必要な前提」を満たし「必要な条件」を備えることで,どのような児童詩が生まれるかを分析したいと考えた。筆者は,国語教育研究者青木幹勇の実践「すずめ」の授業に興味をもった。この実践は,詩の創作指導に「必要な条件」を多く備えているからである。また、この授業によって優れた児童詩が生み出されている(4)。この授業を再現することによって詩の創作指導の在り方が検証できるのではないかと考えた。

そこで本節では,この授業から生み出された児童詩について分析を行い,その児童詩が生み出される過程を振り返ることによって,詩の創作指導の在り方について論述していきたい。

 

 1 「すずめ」の授業の概要

本項では,青木幹勇による「すずめ」の授業の概要を述べる。

この授業は青木幹勇により,1993(平成5)年6月26日(土)日本国語教育学会千葉支部発会式に於いて行われた。千葉市立緑町小学校六学年児童を対象にした詩の授業であり,詩を書くことで想像力を養うことをねらった実践である。この実践記録は『子どもが甦る詩と作文』の第三章「虚構の詩を書く」に掲載されている(5)。

この記録をもとにした授業を再現し,それによってどのような児童詩が生み出されるのかを分析したいと考えた。なぜならこの実践は,詩の創作指導に「必要な条件」を多く備えているからである。具体的に言うと,次のような点が挙げられる。

・ 「想像力」を養うという目的を明確にしていること

・ モデルとなる詩「すずめ」(6)の提示があること

・ 児童にとって身近な「鳥」を素材にしていること

・ 素材に関する取材活動の時間を設けていること

・ 詩の技法「視点の転換」を指導していること

つまり,詩の創作指導の授業としては理想的な形式をもっている可能性があるということである。しかし一方で,この実践に対する疑問も残る。それは,次のようなことである。

「必要な前提」から見た疑問

 ・ 1時間扱いの飛び込み授業であることから児童の実態がわからないこと

 ・ 読む活動と書く活動の両方を行っているため受容指導の充実が図れないこと。

「必要な条件」から見た疑問

 ・ モデルとなる詩「すずめ」がそれほど優れた詩のように思えないこと

 ・ 素材「鳥」の情報を得るための取材活動の時間が少ないこと

すなわち,詩の創作指導に「必要な前提」が満たされていない部分があり「必要な条件」も不十分な面が見られるということである。「必要な前提」に関しては,飛び込み授業が前提であるので問題にされていないのであろう。果たしてこの授業で,児童は詩を書くことができるのであろうか。児童の想像力を養うことはできるのであろうか。

 

2 「すずめ」の授業の実践

本項では,実践した「すずめ」の授業の実際について述べる。

この授業は,水戸市立石川小学校6年2組において2013(平成25)年1月30日に実施した。

授業記録から導ける仮説は,次の2点とした。

・ 詩「すずめ」の構造を理解し,真似をすれば詩を書くことができるであろう。

・ 話者の視点を鳥にすれば,想像を働かせて詩を書くことができるであろう。

この授業は大きく分けて,二つの活動で構成されている。前半で詩の構造を理解し,後半でそれを参考にしながら詩を書く内容になっている。1時間扱いの飛び込み授業が前提であるので,前半部の受容指導をいかに効率よく進め後半部の詩の創作へとつなげられるかが課題となる。

展開の構想にあたっては次の2点を特に留意した。

・ 詩「すずめ」の構造を理解すること(詩の受容指導)

詩の構造を理解するために教材の視写・音読を行った。そして,作者が経験的に知っていて書いている行と想像して書いている行を区別する活動を通して,この詩が経験したことと想像したことで構成されていることに気づけるように配慮した。また題名当てクイズを行うことで,児童の興味・関心を高めた。

・ 想像を広げて詩を書くこと(詩の創作指導)

詩「すずめ」を真似して詩を書くことを伝えた。その際,取材活動として「鳥の名前を1分間で書けるだけ書く」作業を行い,その中から自分の書きたい鳥を選ぶようにさせた。想像力を働かせて書くことができるように「その鳥になりきる」ことを呼びかけた。なかなか書けない児童には,冒頭に「わたしは○○です」の1行を入れるよう助言し,その鳥になりきるための暗示をかけた。それでも書けない児童には「すずめ」の構造を真似した穴埋め式のワークシートを渡し,個別に支援した。

参考資料として「すずめ」の授業で活用した学習指導案及びワークシートを添付する(7)。

 

 3 児童詩の分析

本項では,石川小六年生児童の作品を分析した結果と考察を述べる(8)。

 2人以外は,授業中に詩を書きだすことができていた。詩のモデルを提示し真似させるという活動は,詩の創作活動に有効であると考えられる。また,想像力を駆使して書いている様子がうかがわれた。児童自身の内面を鳥に仮託し,社会批判・人間批判にまで目を向けている詩があった。視点の転換を行い,想像力を働かせて書くという目的を明確に指示すれば、想像力を発揮しながら詩を書くことができるようになると考えられる。

そして,素材を「鳥」にしたことは有効であったと言える。「鳥」に関する取材活動の時間はわずかであったが,詩の素材となる「鳥」を選べない(題名を決められない)児童はいなかった。「鳥」は児童にとって身近な存在であるからだと思われる。また「鳥」は多くの種類が存在し,姿・形・色・鳴き声等それぞれに特徴があるので,児童の書く意欲を高めるために働いたものと思われる。さらに「飛ぶ」という鳥の特性も児童の興味をひくものであると言える。人間が普段見ることのない世界を想像できるからである。一方で「飛ばない」鳥もいるというところがこの素材の面白さでもある。

表現技法にも特徴が見られた。連や行を意識して書いている児童は多かった。モデルとなる詩の構造を理解させることで,児童の作品に影響が表れることがわかる。比喩・体言止め・言葉のリズムを意識して書いている児童もいた。それらの技法を駆使できる児童は,普段から詩の形式に親しんでいるということも推測される。

一方,反復・類比・対比の技法を使用して書いている児童は少なかった。詩「すずめ」は,助詞「が」を用いて対比の構造をもたせていることで,味わいを出している作品であるが,その構造を理解できる児童は少なかったということである。そして,その技法を活用していこうという意欲は児童の中に生まれなかったものと思われる。モデルとなる詩の提示をするだけでなく,詩の技法の指導についても考えていく必要があると言える。

漢字・ひらがな・カタカナの使い分けを意識して書いている児童は少なかった。読点「、」句点「。」の有無を意識して書いている児童も少なかった。詩の技法のよさを理解することなどを通して,言葉を大切にする態度を育む必要がある。

2人以外は授業中にほぼ書き終わっていた。ワークシートを活用している児童はほとんどいなかった。モデルとなる詩の形式と違うためあまり有効ではなかったものと思われる。書けなかった二人の児童は,ワークシートを使っても書けなかった。個への支援の在り方を考えていく必要がある。全体には,推敲を促し清書を宿題とした。しかし5人が未提出であった。本当に書きたいと思って書いている詩ではないからだと思われる。書く意欲を高める手立てがさらに必要だということがわかる。

 

4 授業実践の成果と課題

本項では授業を実践することで得られた成果と課題について述べる。

この授業によって生み出された児童詩を分析することを通して,次のことが明らかになった。

詩のモデルを提示し真似をさせれば,ほとんどの児童が詩を書くことができる。表現技法を意識させるために,詩の構造を理解させることも大切である。また想像力を養うために,視点を変えて書くという方法は有効である。

詩を書かせる場合には,素材の情報が多くあり,選択の場があることが必要である。すなわち素材を身近なものにするとよい。種類が豊富で個性の豊かなものが望ましい。取材活動が少なくても書くことが可能である。

言葉を大事にする態度を育てるために普段から詩に親しんでおき,詩の技法のよさも理解しておくことが必要である。

「受容指導用の教材」と「創作指導用の教材」は質が異なるのではないかという仮説も成り立つ。秋原秀夫の詩「すずめ」は,個人的には優れた作品だと認識していなかった。しかし,児童詩のモデルとしては優れた教材であると評価できる。

 また次のような課題が残された。

一つ目は,書けない児童への支援の在り方である。普段から文章を書き慣れている児童,あるいは詩に親しんでいる児童と,そうでない児童の差が激しい。今回の授業では,ワークシートの活用も有効ではなかった。児童の個人差を埋めるための手立てが必要である。ここでは「詩に親しむ環境づくり」「詩の受容指導の充実」「普段から文章を書き慣れていること」などの「必要な条件」が求められるものと考える。

二つ目は,詩の技法をどのように扱うかという問題である。つまり完全にモデルに任せてしまうのか,児童の経験に頼るのか,きちんと指導すべきなのか,ということである。この「すずめ」の授業においては,「対比」の指導も考えられた。1時間扱いということで,今回の授業では割愛したが,青木幹勇も実践の中で逆説の助詞「が」の指導を試みたことがあると書いている。しかしこの問題は,自由度との兼ね合いを考慮し判断していくべきものであろう。児童の発達段階を考慮する必要もあろう。技法の指導をすることによって,確かに児童の技能は高まるかもしれないが,児童の自由な発想を奪い取ることがあってはならない。あくまでこの授業の目的は詩の技法を身につけさせることではなく,児童の想像力を養うことなのである。

三つ目は,取材活動の扱いである。今回の授業における取材活動は,1時間扱いの飛び込み授業であったため1分間という短い時間で行った。あっさりとした取材活動だった分,児童の詩は自由度が高くなったとも言える。しかし取材活動にじっくりと時間をかけることができれば,より深みのある作品が生まれる可能性もあるのではないか。

やはり,1時間の中に「読む活動」と「書く活動」を入れるのは無理がある。2時間扱いにして,2段階の指導をする必要があると考える。つまり一度完成した作品を,次の時間で再度書き直させるという授業を行うということである。当然その間には,児童の推敲しようとする意欲を高めるための教師の手立てが必要である。その可能性を考えた理由は,授業の終末において行われた授業者による作品例提示「ニワトリ」(9)が有効であったからである。この作品例は,モデルの詩とは違う形式だが,視点を変えて想像力を働かせることを重視したものである。この詩の中の「トリニクめざしてがんばります」の行を音読した際に児童が大きく反応した。この詩を参考にして,自分の詩を見直し書き直している児童もいた。完成すればおしまいというのではなく,言葉やリズム・自分の思い等を大事にして,自分の作品をより高めようとする態度も育てたい。

青木幹勇「すずめ」の授業は,詩の創作指導において有効な実践であることがわかった。なぜなら,詩の創作指導に「必要な条件」を多く備えているからである。詩に「必要な前提」は満たされていない面もあるが,1時間扱いの飛び込み授業という点を考慮すると致し方ない問題であると考える。

青木幹勇の授業実践は,日本の児童詩教育の一つの到達点であると思われる。では日本の児童詩教育は,どのような歴史と経緯を経て今のような形になってきたのだろうか。次節では,弥吉菅一『日本児童詩教育の歴史的研究』を手がかりに,日本児童詩教育の変遷を明らかにし,今後の詩の創作指導の方向性を探っていきたい。未来の児童詩教育の姿はどのようにあるべきなのだろうか。

 

第三節 弥吉菅一『日本児童詩教育の歴史的研究』

前節において,日本の児童詩教育の一つの到達点であると思われる青木幹勇の実践について考察を述べた。では日本の児童詩教育は,どのような歴史と経緯を経て今のような形になってきたのだろうか。本節では,弥吉菅一の『日本児童詩教育の歴史的研究』(10)を手がかりに,日本児童詩教育の変遷を明らかにし,今後の詩の創作指導の方向性を探っていきたい。未来の児童詩教育の姿はどのように在るべきなのだろうか。

 

1 弥吉菅一著『日本児童詩教育の歴史的研究』の概要

本書は,「日本・児童詩教育の歴史的研究」を目標とし,中でも特に創作指導に比重をかけ,「明治維新」から「昭和敗戦」までの約80年間の史的研究を進めたものである。序章・結章を含む全十一章で構成されており,全三巻,総頁数三千を超える大著である。そしてその研究の最大の目標は「未来のポエム発見」であるという。

第一章から第九章までの各章の名称とその時代区分は次のようになっている。

  第一章 投稿詩歌とわらべ唄の時代    (明初─明13)

  第二章 学校唱歌と投稿詩歌の時代    (明14─明26)

  第三章 軍歌流行と少年詩萌芽の時代   (明26─明39)

  第四章 少年詩ブームと新童謡試作の時代 (明38─大6)

  第五章 創作童謡開花の時代       (大7─大11)

  第六章 児童自由詩の時代        (大10─昭4)

  第七章 児童生活詩初期の時代      (昭 5─昭10)

  第八章 生活行動詩への志向時代     (昭10─昭15)

  第九章 戦時下の皇国主義生活詩の時代  (昭16─昭20)

 弥吉菅一は,それぞれの時代の問題点を抽出し,分析・検討を加え,その時代の中で展開された児童詩教育の傾向についての史的位置づけを考察している。なお,敗戦後の児童詩教育の変遷についても,次の三つに区分し言及している。

  (1) 敗戦後の民主主義生活詩の時代  (昭20─昭32)

  (2) 主体的児童詩の時代             (昭33─昭40)

  (3) 三派対立の時代         (昭40─昭50)

 それでは,弥吉菅一がそれぞれの時代の児童詩教育をどのように分析し評価しているのか,順を追って整理していく。

 第一章「投稿詩歌とわらべ唄の時代」の児童詩は,旧来の漢詩や和歌が中心であり,既成概念による対象(花鳥風月)の取材によってつくられた文語調による旧い詩型での表現であるとし,一部のエリート階級のものであったとしている。しかし,創作の芽生えを見出すことができ,その創作意欲と投稿志向は高く評価すべきであると述べている。

 第二章「学校唱歌と投稿詩歌の時代」は,在来のポエムから新興のポエムへの模索が行われていた時代とし,ポエム創作史上,注目すべき現象であると述べている。しかし学校唱歌については,子どもにとって表現(創作)領域にあるものではなく,受容(鑑賞)領域のものであったと付記している。

 第三章「軍歌流行と少年詩萌芽の時代」の児童詩は,戦争色調が高いとして評価していない。しかしながら,少年詩や童謡の萌芽とみられる児童詩を発見し得ると述べている。

 第四章「少年詩ブームと新童謡試作の時代」は,日露戦争の勝利と「赤い鳥童謡」の開花の谷間的存在であり,「冬の谷間」と称され無視されてきた時代であるとしている。しかしながら,新しい文化の萌芽を見ることができると述べている。そして有本芳水の少年詩や北原白秋などの童謡試作を高く評価している。

 第五章「創作童謡開花の時代」は,児童詩創作指導の源流であるとしている。そして,多くの研究者が児童詩の歴史をこの時代の北原白秋童謡から説き起こしていると述べている。月刊雑誌『赤い鳥』は大正7年,鈴木三重吉によって創刊された。北原白秋はこれを受け,その誌に自作童謡を発表し,子どもの作品の選評と指導にあたった。その他にも野口雨情,西条八十らの詩人によって新しい童謡が示され,子どもの創作童謡が指導され,芸術性の豊かな童謡が開花したと高い評価を与えている。空前絶後の隆盛期であったとも述べている。

 第六章「児童自由詩の時代」は,北原白秋によって提唱され指導された時代であるとしている。「児童自由詩」は「対象にリアルに即」をスローガンに掲げ,感動は書かず対象をそのままに写生するように書くことを求めた。そのため「感覚的写生詩」とも呼ばれた。北原白秋は,それまで隆盛を極めていた童謡を否定し,外的リズムより内的リズムを重視し,定型詩から自由詩への脱出を図った。自ら創造した童謡を否定し,新しい児童詩を発見し提唱した北原白秋の態度を絶賛している。

 第七章「児童生活詩初期の時代」は,稲村謙一によって提唱され指導された時代としている。児童自由詩が感覚的な写生詩であり,芸術主義的であると否定した稲村謙一は,対象を花鳥風月から人間の生活現象にすること,傍観的生活態度から生活建設へ移行することの大切さを強調した。この考え方は,「綴方生活」グループの教師に支持され,力強く生活に役立つ詩が生まれてきたと評価している。日本児童詩教育の大河となったとも評している。しかしながら,「生活詩」は生活重視のあまり芸術性を忘れ,生活指導のための道具になる傾向が生じかけていたと述べている。

 第八章「生活行動詩への志向時代」は、妹尾輝雄・吉田瑞穂らによって提唱され指導された時代としている。感覚詩の名残や弱さがつきまとっていた「生活詩」を否定し,子どもの生活や作品をいっそう力強いものにするため,行動の瞬間に表れる感動を表現すべきであると主張した。この考え方は,多くの賛同者を得て強力に前進したと述べている。

 第九章「戦時下の皇国主義生活詩の時代」は,戦時下という特殊な時代であり,文化的には暗黒の時代,氷河の時代と言われ,放置されてきた時代であるとしている。百田宗治の青年詩創作指導のすばらしさについて言及する部分はあるものの,基本的にこの時代の児童詩を評価していない。

 敗戦後(1)「敗戦後の民主主義生活詩の時代」の児童詩は,特に新しい提唱は無かったが,生活詩の流れをくんだものであり、「民主主義生活詩」「戦後児童詩」と呼ばれたとしている。敗戦で荒廃しきっている世相の中で,子どもの心を豊かにしていこうとする願いから生まれた児童詩であり,国語科の教師だけでなく当時新設の社会科の教師によっても指導されたため,量的にはまさに花ざかりといった現象を呈したと述べている。しかし,作文的で芸術性には乏しかったと考察している。

 敗戦後(2)「主体的児童詩の時代」は,生活詩の非詩性を指摘した松本利昭によって提唱され指導された時代としている。「主体的児童詩」は,「たいなあ詩」とも呼ばれ,主体の欲求を表現させ想像力を育むという,新しい詩の創作指導の在り方を提示し,詩を生活指導のための道具にすることを否定した。すぐれた児童詩を数多く生み出し,生活詩の大河をせきとめたと評している。しかし,松本利昭は教育者ではなく詩人であり,授業の中で詩を書かせることを否定していたため,指導上の問題があったと述べている。

 敗戦後(3)「三派対立の時代」は,先に述べた「生活詩」及び「主体的児童詩」と「現代児童詩」対立の時代であるとしている。「現代児童詩」は,畑島喜久生・山際鈴子らによって提唱され実践されており,主体的児童詩からの脱出を試み,生活詩を否定し,子どもの認識力や想像力の育成を目標としている点が特徴であると述べている。「生活詩」グループを第一の世界,「主体的児童詩」グループを第二の世界とし,このグループを「現代児童詩」グループと名付け,第三の世界を提唱しているものとした。この「現代児童詩」は,教育性と芸術性との有機的統一化をねらっており,詩の創作指導の現時点での到達点であると評価している。

以上,弥吉菅一が分析した結果の概要を示し,日本児童詩教育の歴史的な流れを明らかにした。前節において考察した青木幹勇の実践も,「現代児童詩」の枠組みに入るものと思われる。では,今後目指すべき詩の創作指導の在り方はどのようなものになるのだろうか。次項において考察してみたい。

 

2 未来の児童詩教育の姿

 前項において,日本児童詩教育の変遷を明らかにした。本項では,その中でも特に弥吉菅一が評価した時代,すなわち未来の児童詩教育を考える上で重要だと思われる時代について,その内容と流れを整理し,今後目指すべき詩の創作指導の在り方について考察していきたい。まとめると次のようになる。

「創作童謡開花の時代」(大7─大11)が詩の創作指導の出発点であると考えられる。『赤い鳥』誌の童謡選者であった北原白秋は,学校唱歌や軍歌を否定し,「童謡」という新しい子どもポエムを提唱し,子どもの創作童謡が指導された。

「児童自由詩の時代」(大10─昭4)は,北原白秋が創出した「童謡」を,自ら否定することから始まった。外的リズムより内的リズムを大切にし,自由律を唱えた。そして「対象にリアルに即」をスローガンにしていた。詩の本質性を大切にしていたという点で,その芸術性は高かったが,現実生活から離れているという点で批判されるようになっていった。

 「児童生活詩初期の時代」(昭5─昭10)は「児童自由詩」の否定から始まった。稲村謙一は,「児童自由詩」が花鳥風月を対象としての感覚的な写生詩に過ぎないと批判した。人間の生活現象を詩の対象に求め,傍観的生活態度から生活建設へと移行することを提唱した。

 「生活行動詩への志向時代」(昭10─昭15)は「生活詩」の否定から始まった。吉田瑞穂は,「生活詩」が「児童自由詩」の名残がありまだ弱さがあるとして,その写生的手法を否定し「行動でかく」ことを提唱した。行動の瞬間における感動を大切にすることで,「生活詩」より力強く迫力のあるものとなった。この「生活詩」の流れは,「綴方生活」グループの教師に支持され,日本児童詩教育の大河となった。今日でも「日本作文の会」がその手法を継承していると見られる。

「主体的児童詩の時代」(昭33─昭40)は「生活詩」の否定から始まった。松本利昭は「生活詩」が生活重視のあまり芸術性を忘れ,生活指導のための道具になっていると批判した。「たいなあ詩」とも呼ばれ,詩を書かせることで児童の主体性を育み,想像力を養うことを提唱した。優れた作品を数多く生み出したが,教育性を否定していたため世に理解されない傾向があった。

「三派対立の時代」(昭40─昭50)は「生活詩」を否定し,「主体的児童詩」を発展的に継承しようとする試みの中から始まった。畑島喜久生は,「主体的児童詩」が教育的ではないとし,それを教科構造の中に位置付けすることで,教育性と芸術性との統一化をねらった。また大阪児童詩の会の実践家山際鈴子は,詩を生活指導に用いないことを原則とし,児童の想像力や認識力を養うことを目標に掲げ,「生活詩」でも「たいなあ詩(主体的児童詩)」でもない児童詩を目指した。さらに詩の芸術性をも重視し,詩の技法を合わせて指導していくことによって,優れた作品を数多く生み出した。前節で述べた青木幹勇の詩の創作指導の在り方も,詩を生活指導に用いず,児童の想像力を養うことをねらっているという点で共通しており,時代的にも内容的にも「現代児童詩」の枠組みの中に入るもの考えられる。

 いずれも前の時代の児童詩を否定することから,新しい詩の創作指導の方法が提唱され現在に到っていることがわかる。では,最も新しい時代の指導法が最善の方法なのだろうか。弥吉菅一は次のように述べている(11)。

   さて,わたくしは,明治初年から昭和の敗戦時までの80年間(戦後の30年間を加えると百年を越す)を対象に子どものポエムを対象にして,その移り変わりを調べてきた。良い詩,悪い詩。良い時代,悪い時代。といった判断を史的展開のため,ことさらに強調してきた。新提唱のたびごとに前のものの欠点をあげ否定に及んだ実態をことさらに明確化してきた。しかし,再検討してみると,どの時代のどの提唱も,その時代においては,要請されてそれに応じたものであって,それなりの良さを内包していることがわかった。あわせて,その提唱はそれまでの欠点を改め補い,子どもの「しあわせ」をもたらしていた。そればかりでなく,次の世代への方向と,その世代に応じる得るであろう子どもポエムの方向をも,無言のうちに予言していた。であるので,今まで悪いものとして否定され放棄されていたものではあるが,良いところをたしかに内包していたのであった,ということになる。これは,まことにあたりまえのことであるが,わたくしにとっては,一つの不思議な発見であり気づきであった。芭蕉の「山路来て何やらゆかしすみれ草」(貞享2年春)であった。

 また,未来の児童詩に向けての提案を次のような例えで表現している(12)。

・「生活詩」の「生活」は大地のようなものであった。大地は,すばらしい「児童生活詩」を育ててくれた。だが,ポエジーそのものの品種改良までは無理であった。

・「主体的児童詩」は,そのポエジーの品種改良に尽力し,ひとまず成功することができた。その喜びのあまり急いでそれを蒔いてしまった。それはそれでよいことであったが,その大地の土壌調べや肥料与えのことを軽視し忘れていた。しかも,子どもということさえも忘れていた。

・「現代児童詩」は,その新種のポエジーを大切にし,肥料与えを子どもの成長に応じて与えることを志向し実践した。その種子は喜び芽を出し始めた。ただし,土壌としての生活性のたがやしが,さらに加算されるようになったら,その萌芽はいっそう生き生きとしたものになって伸びていくだろう。

弥吉菅一は,現時点での詩の創作指導の到達点として,畑島喜久生や山際鈴子の実践を高く評価していることがわかる。しかし前の時代の詩の指導法のよさを見直し,よい部分を取り入れていくことの大切さも説いている。常に新しい時代の指導法が最善ではないという考え方である。

以上のことを踏まえ,『日本児童詩教育の歴史的研究』における弥吉菅一の主張を要約すると次のようになる。

いずれのポエム(感覚的写生詩・生活詩・生活行動詩・主体的児童詩)のいずれをも否定することなく,それを受け止め、実践に生かし,その作品化に成功させることが必要である。今は否定され放棄されている数々の子どもポエムも,ポエムが本質的に必要とする詩的要因というものを明確に内包していたからである。「何を」とか「どれを」とかいう一つの世界から「どれをも」の世界へと変革することが大切である。

児童詩の「よしあし」を自分自身で判断し,その児童詩の「うけいれ」と「はねのけ」のできる想像的創造力のある子どもを育てたい。「よしあし」の判断には、「ポエムのココロ」(綴方と異なった詩的ポエジー)「ポエムのコトバ」(ポエジーとその言語形象化)「ポエムのリズム」(外的リズムより内的リズム)の追求が必要であり,子どもの成長にあわせての指導法が加算されねばならない。

この主張を受けて,本研究における詩の創作指導は「現代児童詩」の先行実践の優れている点を学びながら,「感覚的写生詩」「生活詩」「生活行動詩」「主体的児童詩」という指導法のスタイルを否定することなく,また固執することなく,それぞれの指導法のよい点を見直し,必要があれば随時採用していくといった方法をとりたい。

次節では,弥吉菅一が特に高い評価を与えている大阪児童詩の会の実践家山際鈴子の実践分析を通して,詩の創作指導のあるべき姿について明らかにしていく。

 

第四節 足立悦男「思想型の詩の創作指導」(山際鈴子の実践分析)

前節では,弥吉菅一の『日本児童詩教育の歴史的研究』を手がかりに,未来の児童詩教育の在り方について考察した。そして,現時点での詩の創作指導の到達点として,山際鈴子の実践を高く評価していることが明らかになった。山際鈴子の実践を追い,その実践を分析してきた研究家に足立悦男がいる。足立悦男は研究論文「異化の詩教育学―教材編成の理論と方法」(13)の中で,山際鈴子の実践を高く評価している。本節では,足立悦男が批評してきた山際鈴子の実践を分析することを通して,詩の創作指導の在るべき姿にせまる。

山際鈴子は,大阪児童詩の会の代表を務めた実践家である。詩を生活指導に用いないことを原則とし,児童の想像力や認識力を養うことを目標に掲げ,「生活詩」でも「たいなあ詩(主体的児童詩)」でもない児童詩を目指した。さらに詩の芸術性をも重視し,詩の技法を合わせて指導していくことによって,優れた作品を数多く生み出した。『かぎりなく子どもの心に近づきたくて』という詩集が3冊、銀の鈴社から発行されている。足立悦男が研究対象とした,山際鈴子及び大阪児童詩の会による実践テーマ例を次に示す。

  1 存在型の詩

   ・ 耳をつけて聞く・抱きしめて聞く

   ・ 連想から始めよう

   ・ SOMETHING NEW

  2 思想型の詩

   ・ 心のひみつ

   ・ 生活を見直す

  3 時間型の詩

   ・ 特定の時間型

   ・ ストップ型(時間よとまれ・STOP STOP STOP)

   ・ スローモーション型(好きなこといっぱいしてますか)

   ・ 対比型(まだ・もうの大発見や)

  4 空間型の詩

   ・ 低視点(小さな虫になってあさがお見たよ)

   ・ 高視点(わしの目・たかの目)

   ・ 視点の移動(足)

   ・ 視点の反転・拡大・凝視(詩をつくろう・見ることをとおして)

   ・ 造形型の詩(ながめて読む詩)

  5 ことば型の詩

   ・ なぞなぞ詩

   ・ ナンセンス詩

   ・ 韻を踏むうた

   ・ 一行詩

   ・ オノマトペの詩

   ・ 新聞の小見出しで詩を作る

   ・ 散文詩

   ・ リフレイン(反復)

   ・ 文字による造形

足立悦男は詩のタイプを五つに分類した。「存在型の詩」「思想型の詩」「時間型の詩」「空間型の詩」「ことば型の詩」の五つである。五つのタイプの分類の仕方については、本研究のテーマからそれるため、詳細を説明することは省くが,第二節で述べた青木幹勇の「すずめ」の授業や,工藤直子の「のはらうた」などは,「空間型の詩」の創作指導の典型的な例だと言える。

山際鈴子は,足立悦男の分類する五つのタイプの全てにおいて多くの実践を残している。筆者はその中でも「思想型の詩」に着目した。なぜなら,思想型の詩の創作指導を追究することを通して,本研究のテーマに迫れるのではないかと考えたからである。そして,「現代児童詩」の抱える課題をも解決できるのではないかと考えたからである。

足立悦男は,思想型の詩を「詩の形式によって新しい見方・考え方を提示する作品」と定義し,その指導のねらいを次のように述べている(14)。

山際鈴子は,児童詩教育のねらいを,「新しい見方や意味をみつけ出し,ひとりのたった一度の感動を,普遍的なものにしあげていくのだと思います」,と述べている。(中略)詩の創作指導で育成する思想とは何かを,明解に述べた一節である。自己と自己を取りまく世界を「とらえ直す」ことで,子どもたちの内部で育っていくものがある。思想型の創作指導とは,子どもたちのその「思い」を,詩を書くことによって表す表現教育である。

   思想とは,哲学用語で「感覚経験に対して思考作用を働きかけ,また,想像力を加味して生じた意識内容をいう」(『日本国語大辞典』)と定義されている。思考力(思考作用)と想像力を,私は,詩教育における重要な学力と考えているが,この定義からは,思想型の受容指導・創作指導は,その思考力と想像力を育てる教育であることがわかる。

足立悦男は,想像力を詩教育における重要な学力と捉え,思想型の詩の創作指導が想像力の育成に有効であるということを,山際鈴子の実践研究から考察している。

では,思想型の児童詩とはどのようなものなのだろうか。山際鈴子の実践の中から,次のような作品が生まれている(15)。

 

小さな光  4年 島田 博

 

   1ミリメートルのような 小さな光でも

   暗やみにはいったら, 1メートルのような光になる

   光は,あいてがよわいと のびて,

    あいてがつよいと ちぢまる。

   走りも あいてできまる。

   みんな あいてできまる。

   でも自分の力は いっしょだ。

   いばってもつよくはない。

 

 足立悦男はこの作品に対し,次のような批評を与えている(16)。

   題名のとおり,「小さな光」を題材とした作品である。しかし,作品の主題は光そのものにはなく,「あいてがつよいと ちぢまる。/みんな あいてできまる」という考え方(思想)である。「小さな光」を見ていて,光と人間の関係の新たな考え方(思想)を発見した作品である。(中略)

   この作品を例として,山際は想像力とは「過去の経験を,いま目の前にあるがごとく心象としてえがき出すこと」と考えるようになっていった。この作品の場合にも,「人についての過去の経験」があって,目の前の光を見た時に「再認識されて」,想像力を生み出した,と考えられている。

   このような想像力の考え方は,現実の見たままを重視する生活詩とも,心の中の心象風景を重視する主体的児童詩ともちがう,独自の考え方である。弥吉菅一は,山際の児童詩教育を,戦後児童詩教育における「第三の世界」と位置づけている。的確な評価であると思う。

足立悦男は,山際鈴子の児童詩を従来の生活詩や主体的児童詩とは異なったものであるとし,その独自の考え方を高く評価している。これは,弥吉菅一の「第三の世界」という位置づけに,賛同したものと考えられる。しかしながら弥吉菅一は,その「第三の世界(現代児童詩)」を詩の指導の現時点の到達点であると認めながらも,まだ課題が残されていると主張する。

前節において,弥吉菅一の未来の児童詩教育に向けての提案を引用した。再掲する(17)。

「現代児童詩」は,その新種のポエジーを大切にし,肥料与えを子どもの成長に応じて与えることを志向し実践した。その種子は喜び芽を出し始めた。ただし,土壌としての生活性のたがやしが,さらに加算されるようになったら,その萌芽はいっそう生き生きとしたものになって伸びていくだろう。

 弥吉菅一は,山際鈴子の実践を高く評価しながらも「土壌としての生活性のたがやし」がさらに必要だと述べている。すなわち,詩の創作指導を進めるにあたっては,児童に生活を見つめ直させることも重要であると考えられる。ここで注目されるのは,先に挙げた山際鈴子の実践テーマ「生活を見直す」である。このテーマに取り組むことは,まさに児童に生活を見つめ直させ,「土壌としての生活性のたがやし」をすることにつながるのではないか。「生活を見直す」からは,優れた「思想型の詩」が生まれており,足立悦男は次のように述べている(18)。

   次に,子どもたちが詩を書くことで,ごく身近な,身のまわりの生活を見直すような実践を取り上げる。(中略)この創作指導は,自己を取りまく身近な世界を,詩を書くことで見直していく実践である。山際鈴子に,「ある日 とつぜん」という実践がある。次のような作品が生まれている。

 

     ヤクルトはいたつ  4年 小南栄子

 

   うち,

   朝おきて,

   ヤクルトくばっとってん。

   そらはみずいろで,

   世界かっこくにいきわたっていたよ。

   人も,

   一人,二人だったよ。

   うちが,

   くばっとったら,

   花が,

   むねをはって,

   きょうつけやってんのやで。

   朝はやくは,

   大阪は,

   いなかになるわ。

 

   早朝のヤクルト配達のことを書いた詩である。子どもたちのまだ眠っている時間に,作者は,家計を助けるためにヤクルト配達のアルバイトをしていた。そして,ある日のこと,早朝の町が今まで見たこともない町に見えた。その町のことを,見えたままに書いた作品である。子どもの想像力が花ひらいた一瞬であった。現実の町は変わることはない。その町が,ある日の朝,このように見えたのである。子どもの想像力の作り出した町の光景である。(中略)

   指導者の山際は,この実践の「ねらい」について,「毎日毎日,同じことをくり返す生活の中で,ものの意味を問い,新しい意味を発見する。さらに,それを書くことにより,そのものの本当の意味をみつけ出し,感動を新たにしていくことは,とても大事なことではないでしょうか」と,述べている。

日々の生活を見直していく中で,今まで見ていたのに見えていなかったことに気づき,その発見の感動を自分の言葉で書く作業は,想像力の育成に有効であることを山際鈴子は示唆している。

では詩と想像力の関係を,山際鈴子はどのように捉えていたのだろうか。足立悦男は,作品例を挙げながら次のように述べている(19)。

   山際の実践は,詩を書くことで,子どもの想像力をどう引き出すか,というテーマをもっていた。(中略)あるとき,遠足を題材とした,次のような作品が生まれたことがある。

 

    仏像   5年 野間恭子

 

   人々があせにまみれ,作り上げた仏像。

   細かく,すみずみまできざんだ仏像。

   仏像を,人々は 生み育てた。

   仏像を,愛でつつみ,ほほえみひとつまで

    気を配った

   仏像は小さかった。

   でも,人々は 仏像の中身をこくふやした。

   手のないものも愛で,見えないうでをつくった。

 

   「なによりもだいじなのは想像力ではないかな」と考えていた時期の作品である。作者は仏像に対して,表面からは見えない「愛」の物語を見ている。仏像を作った人々の愛を想像し,愛の思想をうたった作品である。想像力の中でも,見えないものを見るという,もっとも豊かな感性によって想像された世界といえる。この作品は,指導者の山際にとって,想像力の重要性を認識するきっかけとなった詩であった,という。(中略)

   子どもの詩と想像力の関係に一つの道筋を見出すことのできた,その意味での画期的な作品であったようだ。(中略)ただ見たままをくわしく観察しても詩にはならない。そこに想像力の介在がなくては詩にはならないのではないか。そう考えていたときの作品であった。

山際鈴子は,詩を書くことで子どもの想像力を引き出すことをテーマとし,生活を見直す詩の創作指導を実践していく中で,優れた「思想型の詩」を生み出した。

本研究のテーマは,児童に書かせたい詩の姿を「日々の生活の中から発見した感動を自分の言葉で表現したもの」とし,それを書かせることによって,児童の想像力(見えないものを見る力)を養うことである。足立悦男が評価する山際鈴子の「生活を見直す」実践を追究することは,本研究のテーマに迫ることであり,弥吉菅一の主張する「土壌としての生活性のたがやし」につながるものだと考える。

 さらに「仏像」の詩について,足立悦男は注目すべき批評をしている。以下引用する(20)。

実は,この詩は「推敲後」の作品であった,という。元の詩は,次のような作品であった。

 

      遠足   5年 野間恭子

 

   しゅ色につつまれた寺

   むかしの人々の手できざまれたもよう

   気品のある仏像

   風になでられるみどりのじゅうたん

   金色の米つぶがゆれている

   美しい風と大自然の中でゆれる

   大きな仏像やいね

   人々の努力が

   一つ一つのものからにじみでている

   この作品は,遠足で行ったお寺で見た仏像を,お寺の周辺の実った稲穂の風景と重ねて書いている。これはこれでよくできた作品ではある。ただ,先の「仏像」とくらべると,作品の訴えるものは弱く,どこか道徳的である。「仏像」にみられる愛の思想はみられない。では,この作品はどのような推敲指導を受けて,「仏像」に書き直されていったのであろうか。

   指導者の山際は,この作品に対して,「この詩には二つのことが含まれている。どちらか一つ心を打たれた方を中心に,どんな思いでそれを見たのか」と話し,書きなおしの視点を与えた。この作者は転校生であり,「前の学校では,ありのままに書いたのがよいと文集にものっているのに先生は,なぜ,たとえや,そのものになりきってとか,想像などというのか」と尋ねたことがある,ということである。山際の指導が当時の「見たままを書く」生活詩とどこが違うのか,よくわかるエピソードである。「見たままを書く」詩ではなく,そこに比喩や想像の指導がよく行われていたことを示すエピソードである。「仏像」という思想型のすぐれた作品は,そのような推敲指導によって生み出されたことがわかる。この推敲指導の実践もまた,子どもたちの豊かな想像力の存在を教えてくれる。

この批評からは,詩の創作指導の在るべき姿について,三つの重要な課題が示されていることがわかる。

一つめは,児童に書き直しの視点を与えて推敲させることの大切さである。

二つめは,詩の技法(比喩や反復など)の指導をしておくことの大切さである。

三つめは,想像力を発揮させて書くというねらいを明確にすることの大切さである。

 このことについては,次節で改めて述べる。

 以上,足立悦男の分析する山際鈴子の実践について考察を述べてきた。山際鈴子の実践の中でも,「思想型の詩」の創作指導,とりわけ「生活を見直す」というテーマに取り組むことは,本研究のテーマに迫ることにつながると考えられる。

では山際鈴子の「思想型の詩」の創作指導と思われるテーマは,他にどのようなものがあるのだろうか。テーマ例を列挙してみる(21)。

山際鈴子の詩の創作指導テーマ例

  ・ 見えないものをみつけよう

  ・ ○月の□□

  ・ 好きな季節

  ・ 好きな場所

  ・ 友だちを知る。自分を知る。

  ・ わたしの家族・ぼくの家族

  ・ 「あいさつのことば」を思い出そう

  ・ 「心に残った話」をしよう

  ・ 一番やってみたいこと

これらのテーマ例等を,学年・学級の実態に応じて,選択・活用することを通して指導すれば「土壌としての生活性のたがやし」をすることができ,優れた思想型の詩の創作につなげられるのではないだろうか。

では次節において,詩の創作指導の在り方についてまとめていく。

 

 第五節 まとめ

足立悦男の論文からは,詩の創作指導の在るべき姿について,三つの重要な課題が提示された。

一つめは,児童に書き直しの視点を与えて推敲させることの大切さである。当然,書き直しの視点は児童の作品と実態に沿ったものでなくてはならず,推敲させるためには,書き直しをしてみようという児童の意欲を喚起する教師の手立てが必要である。

二つめは,詩の技法(比喩や反復など)の指導をしておくことの大切さである。本研究においては,受容指導の領域で児童の発達段階等に合わせて指導をしていくことになる。

三つめは,想像力を発揮させて書くというねらいを明確にすることの大切さである。

以上三点の重要性については,本章の第二節「青木幹勇実践」の考察を通して得られた課題とも重なるものである。

そこで本研究では,以上の三点と,前節で考察を述べた山際鈴子の実践を踏まえ,詩の創作指導における方法・留意点として以下の諸点を掲げることとする。

・ 児童の「想像力」を養うというねらいを明確にする。

・ 山際鈴子の「生活を見直す」実践を追究し,「日々の生活の中から発見した感動を自分の言葉で表現した詩」をつくらせる。

・ 詩の技法を児童の発達段階に合わせて指導しておく。

・ できあがった作品に書き直しの視点を与え,推敲させる。

・ その詩が「思想型の詩」すなわち「詩の形式によって新しい見方・考え方を提示す

作品」となれば望ましい。

しかし,現実的には課題もある。「大阪児童詩の会」の実践上の問題点には,次のようなものが挙げられる。

・ 詩の指導に時間をかけすぎている。

・ 全てのテーマに挑戦することは無理がある。

・ 学習指導要領との対応や年間指導計画との兼ね合いが難しい。

学校教育の現場では,詩の指導をする時間は限られている。環境づくり等で詩に親しむ時間を特設する場合を除き,実際に児童が詩にふれる機会は,年間10時間にも満たないというのが現状である。

そこで筆者は,日々の日記指導に着目した。山際鈴子の詩の創作指導テーマ例を,日記の課題として提示し,児童に書かせることは容易である。時間の確保も問題なくできる。

前章までにおいて,詩の創作指導の土台として,日記指導を進めることの重要性を述べてきた。詩を書くためには,文章を書き慣れていること,自分の思いを言葉でつづる経験があることが必要だからである。当然ながら,児童に自分自身の生活を見直させるという視点からも,日記指導は有効である。したがって,山際鈴子の詩の創作指導テーマ例を,日記の課題として提示し,詩の創作指導につなげることの可能性を教育現場で試してみたいと考えたのである。

 次章では,20●●(平成●●)年度に●●市立●●小学校●年●組において実践した,詩の創作指導の実際について論述していく。

 

【注】第五章

(1) アンケート調査の結果。(末尾資料4~7頁)

(2)  教科書教材の分析。(末尾資料8~10頁)

(3)  文部科学省編『小学校学習指導要領解説国語編』2008(平成20)年,八,東洋館出版社。

(4) 青木幹勇の実践から生まれた児童詩。(末尾資料11~14頁)

(5) 青木幹勇編『子どもが甦る詩と作文』1996(平成8),10,国土社。

(6) 秋原秀夫作「すずめ」の詩。

  全文は以下のようになる。

 

     すずめ   秋原 秀夫

 

   羽の色も鳴き声も         

   目立ちませんが          

   朝は早起きです

 

   家の近くに住んでいますが

   人にはなれません         

   でも子どもは大好きです      

                  

   小さくて力が弱いので       

   仲間といっしょに行動します

   暴力はきらいです

 

   秋の田んぼではきらわれますが

   害虫を食べることも

   わすれないでください

 

   いつも明るく           

   たくましく生きたいと       

   思っています

 

(7) 「すずめ」の授業で活用した学習指導案及びワークシート等。(末尾資料15~23頁)

(8)  石川小6年生児童の作品を分析した結果表。(末尾資料24~26頁)

(9) 筆者作「ニワトリ」の詩。

  全文は以下のようになる。

 

     ニワトリ   豊田 龍彦

 

   子どもの頃は ヒヨコと呼ばれ

   可愛がられて 育ちました

 

   オヤコーコーをしたいけど

   親のことはわかりません

 

   何だか とっても さみしくなって

   毎日 タマゴを 産んでいますが

   子どもが なかなか 生まれません

 

   昨日 初めて 庭を見ました

   青いお空が 見えました

 

   トリニクめざして

   がんばります

   願いは一つ 親子丼

   子どもといっしょが一番です

 

   何だか ちょっぴり ムナしくなって

   空に向かって

   なきました

 

   コッケイ ケッコウ

   ケッコウ コッケイ

 

(10) 弥吉菅一編『日本児童詩教育の歴史的研究』1989(平成元)年,二,溪水社。

(11) (10)に同じ。

(12) (10)に同じ。

(13)  足立悦男「異化の詩教育学―教材編成の理論と方法」(『島根大学教育学部紀要(教育科学)』第34巻,2000(平成12)年,1~18頁)。

(14) 足立悦男「異化の詩教育学―思想型の創作指導」(『島根大学教育学部紀要(教育科学)』第41巻,2007(平成19)年,58~72頁)。

(15) 山際鈴子編『かぎりなく子どもの心に近づきたくて』1990(平成2),十二,教育出版センター。

(16)  (14)に同じ。

(17)  (10)に同じ。

(18) (14)に同じ。

(19) (14)に同じ。

(20) (14)に同じ。

(21)  児玉忠,大阪児童詩の会編『見つめる力・発見する力を育てる児童詩の授業―山際鈴子の授業を追って―』2011(平成23)年,8,銀の鈴社。

 

 

第六章 児童詩の分析(平成●●年度の実践研究)

本章では,筆者が20●●(平成●●)年度●●市立●●小学校●年●組において実践した内容について述べる。そして,本研究によって生まれた児童詩の分析を行う。

本学級の児童(男子●●名,女子●●名,計●●名)は,与えられた課題には意欲的に取り組む傾向があるが,自ら課題を見出し進んで取り組もうとする態度に不十分な面が見られた。それは国語の学習においても顕著で,文章を進んで読み,自分の意見や考えを書いたり発表したりすることを苦手とする児童が多かった。また学力の差が激しく,4月の時点では学力診断テストの正答率が8割を超える児童の割合が30%近くいるのに対し,個別支援の必要な児童の割合も30%以上いるのが特徴であった。そのため,一斉指導やグループ学習を行う際に困難を伴う場合があった。

本学級の児童は小学●年生の時にも筆者が担任をしており,●年をおいて2回目の担任ということになる。小学●年生の時は詩の創作指導に関わると思われる活動として,次のようなことを行ってきた。参考までに列挙しておく。

・ 詩を学習環境に生かそうとすることは,筆者の好きな詩を折に触れて紹介する程度で特に意識しては行わなかった。ただし百人一首が国語の教科書の中で紹介されていたため,百人一首大会を行ったり暗唱テストを行ったりすることを通して,和歌という文化に触れそのリズムに親しんできた。そのことが「詩の環境づくり」に該当するものであると言える。

・ 第三章において前述した「かたつむり」の授業を4月の保護者参観向け授業で行った。これが「詩の受容指導」の充実に当たる。

・ 「日記指導」は特に行わず,任意に取り組ませていた。女子児童の中の一部は進んで日記を書いて提出していた。詩のような表現法を好む児童が2~3人いた。

・ 「詩の創作指導」として,教科書単元「連詩に挑戦しよう」に取り組んだ。続きを想像することができず全く書けない児童もいたが,全体としては感性の豊かさを感じさせる作品も生まれた。

 ではこのような実態の学級を対象にした場合,どのような実践を積み重ねていけば本研究のテーマに迫っていくことができるのだろうか。次節において述べる。

 

第一節 実践の内容

第一章において述べたように,「詩の創作指導」と言えば詩をつくらせるための方法論のみに目が行きがちであるが,本研究では「詩の創作指導」を単独のものとして捉えていない。土台である「日記指導」と「詩の環境づくり」「詩の受容指導」「詩の創作指導」の三つの柱それぞれが密接に関わり,それら全てを一体として捉えたものを本研究における「想像力を養う詩の創作指導」と定義している。

本節でもそれを踏まえ,実践の内容を「詩の環境づくり」「詩の受容指導」「詩と日記指導」「詩の創作指導」の4つの項目に分けて論述を進めていく。

 

1 詩の環境づくり

 第二章において,卯月啓子の実践は詩の創作指導の原点ではないか,という筆者の考えを述べた。詩に親しむための環境づくりを行い,アンソロジー(名詩選)作り等を通して詩にふれる機会を増やすことは,詩の創作指導を進めるための柱の一つとして欠かせないものだと考える。卯月啓子の実践を参考にしながら,自分の学級の実態に応じて是非とも詩の環境づくりを進めていきたいと考えた。

しかし課題がある。卯月啓子の「アンソロジーづくり」を忠実に再現することは,教師にとっても児童にとって負担が大きいということである。

したがって,無理なく児童が詩に親しむための環境づくりを進められるように工夫しなければならない。アンソロジー作りが指導者と児童の負担にならないよう配慮することが大切である。なぜなら詩の環境づくりは年間を通して継続的に行われなければならないものだからである。過去の筆者のように,無理をしてアンソロジー作りに取り組み,途中で挫折してしまってはならない。

 そこで次のように実践を行うこととした。

・ 学級文庫に詩のコーナーを作り,教師が折に触れて好きな詩を紹介する。

・ 掲示係が週に1回詩を選び,色画用紙に書き写す。

・ 色画用紙に書いた詩は背面黒板に掲示する。

・ 前の週に掲示されていた詩は,教室前面に掲示する。

・ 児童は水曜日の朝の時間に,その詩を各自の日記ノートに書き写す。

・ 朝の時間で詩の視写ができない時は,教師がその詩をコピー・印刷して児童に配付する。

・ 年間で1冊のアンソロジーを製作し,児童に紹介する。

 「詩を各自の日記ノートに書き写す」の実践については補足しておく。なぜあえて「日記ノート」を活用するのかという疑問が生ずるであろうと予測するからである。その理由の一つ目は,負担を軽減するためである。詩の視写をするためのノートをもう1冊用意するとなると,指導者側が目を通すノートの種類が増えることになる。特に本学級の児童は●●名と多いので,処理するノートの種類はできるだけ少なくしたい。児童側としても,漢字ノートと計算ノート,自主学習ノートと日記ノートの4種類を常に持ち歩いている状態なので,これ以上増やすことは負担が大きくなり意欲の減退につながることも考えられる。理由の二つ目は,日記ノートを詩の創作に活用するためである。第四章で述べたように,本研究では日記を素材とした詩の創作指導を進めることもねらっている。日記を素材として詩を創作する際に,様々な詩が日記ノートに蓄積されていることは有効に働くのではないかと考える。指導者側としても,詩の視写指導と日記指導を1冊のノートで行えるので一石二鳥である。また日記指導の定義の中に「課題日記」というものがあり,その中において詩を書き写す実践例の記述がある。筆者はこの実践も参考にしたいと考えた。「課題日記」については,本節の第三項において後述する。

なおここで,「教師が折に触れて好きな詩を紹介する」の実践の中で,児童に紹介した詩の一例を挙げておく。筆者の好きな詩の一つとして,児童が笠間市小学校陸上競技大会に臨む前日に次の詩を紹介した。

 

     かえるのぴょん  谷川俊太郎

 

   かえるのぴょん

   とぶのがだいすき

   はじめにかあさんとびこえて

   それからとうさんとびこえる

   ぴょん

 

   かえるのぴょん

   とぶのがだいすき

   つぎにはじどうしゃとびこえて

   しんかんせんもとびこえる

   ぴょん ぴょん

 

   かえるのぴょん

   とぶのがだいすき

   とんでるひこうきとびこえて

   ついでにおひさまとびこえる

   ぴょん ぴょん ぴょん

 

   かえるのぴょん

   とぶのがだいすき

   とうとうきょうをとびこえて

   あしたのほうへきえちゃった

   ぴょん ぴょん ぴょん ぴょん 

 

 児童はこの詩を音読することを通して,リズムの心地よさを楽しむと同時に,想像を超える「かえる」の姿に驚きを感じていた。筆者はこの詩を通して,人間は最初から自分の限界を定めてしまいがちであるが,実は無限の可能性を秘めているということを伝え,陸上競技大会には自信をもって臨んでもらいたいという話をした。

それ以来,谷川俊太郎の詩に興味をもつ児童が増えたため,「ことばあそびうた」を紹介し、国語の授業開始時に全員で音読し,詩を楽しみながら口の体操をするといった活動も取り入れた。

以上のような詩の環境づくりを進めていくことによって,児童の詩の創作活動にどのような効果が出てくるのか検証していきたいと考えた。

では次項において詩の創作指導を進めるための柱の二つめ「詩の受容指導」の実践内容について述べる。

 

2 詩の受容指導

第三章において,詩の受容指導において重要視すべき詩の技法を次のように抽出した。

 ・ 視点人物の条件

 ・ 題名

 ・ 文字(漢字とひらがな・カタカナ)

 ・ 続け書きと分かち書き

 ・ 句読点の有無

 ・ 同音異義語

 ・ 声喩(擬態語と擬声語)

 ・ 比喩(直喩・暗喩・擬人法)

 ・ 類比・対比

 ・ 反復(くり返し)

 ・ 矛盾(類比であると同時に対比・対比であると同時に類比)

以上の詩の技法を西郷竹彦の提唱する詩の授業の方式「展開法」や「層序法」などを用いて理解させ,詩のおもしろさや味わいを捉えさせることを,本研究における詩の受容指導と定義した。

 本実践では指導対象児童の実態を考慮して,これらの詩の技法を大きく五つの項目に分け,より平易な言葉にして整理した。本学級の児童は詩の技法に対する関心が低く知識・理解が少ないと考えたからである。本校の所在地茨城県笠間市は日本一の栗の産地である。そこで「栗」をキーワードに語呂合わせを考え,次のように定めた。児童には,「笠間の栗の生産量は日本一だからくりもただでもらえる」というように覚えさせるのである。

 ・ ○く りかえし → 反復・類比・対比・矛盾

 ・ ○り ずむ   → 行がえ・語調・韻・文末表現・体言止め・倒置法

 ・ ○も じ    → 漢字・ひらがな・カタカナ・句点・読点

 ・ ○た とえ   → 直喩・隠喩・声喩・活喩(擬人法)・視点

 ・ ○だ いめい  → 詩のゼロ行

 

「くりかえし」では,まず反復(くり返し)を指導する。類比・対比・矛盾については児童の実態に応じて説明を加える。

「りずむ」では,行がえをすることによって語調を整えたり,文末表現に注意することによって韻を踏んだりすることを指導する。体言止めと倒置法については,伝えたいことを強調するために用いる技法であって厳密にはリズムを整えるためのものではないが,ここではリズムを変えるものという観点からこの項目内に分類した。

「もじ」では,特に漢字とひらがな・カタカナが生み出す効果の重要性について指導する。さらに句読点の有無によって生まれる効果についても言及する。

「たとえ」では,直喩・隠喩・声喩・活喩(擬人法)・視点人物の条件について指導する。

「だいめい」では,題名の役割と題名のもたらす効果について指導する。

本実践では,これらの詩の技法を「はじめて小鳥がとんだとき」の授業や後述の「詩の創作指導」の中の授業を通して,児童の発達段階に合わせて指導することとした。

「はじめて小鳥がとんだとき」の授業は,西郷竹彦の授業記録(1)をもとに筆者が20●●(平成●●)年4月の保護者参観で行ったものである。授業の方式は「展開法」と「層序法」の「折衷法」である。この授業を通して指導したい詩の技法は「くりかえし」と「たとえ」とした。

「はじめて小鳥がとんだとき」の全文は次のようになる。

 

     はじめて小鳥がとんだとき   原田直友

 

   はじめて小鳥がとんだとき

   森は,しいんとしずまった。

   木々の小えだが,手をさしのべた。

  

   うれしさとふあんで,小鳥の小さなむねは,

   どきんどきん,大きく鳴っていた。

   「心配しないで。」と,かあさん鳥が,

   やさしくかたをだいてやった。

   「さあ,おとび。」と,とうさん鳥が,

   ぽんと一つかたをたたいた。

 

   はじめて小鳥がじょうずにとんだとき、

   森は,はく手かっさいした。

 

授業は概ね次のような流れで行った。学習活動と教師の発問を示す。

(導入)

「はじめて小鳥がとんだとき」を何というか→「巣立ち」

(展開法)

① 題名・作者名を板書(以下,ゆっくり音読しながら1行ずつ板書する。)

② 2行目〈しいん〉→声喩(オノマトペ)について説明する。

③ 3行目「木々の小えだは,なぜ手をさしのべたのか。」

④ 6行目「かあさん鳥ととうさん鳥どちらが言った言葉か。」

⑤ 8行目「とうさん鳥は何と言うか。」

⑥ 7・9行目「かたをどのようにしたと思うか。」

⑦ 10行目「はじめて小鳥が…の続きはどうなるか。」

⑧ 11行目「森はどうしたと思うか。」

(層序法)

① 全文読み聞かせを行い,三連構成であることを説明する。

② 1行ずつ追い読み・1行交代読み,一斉読みをする。

③ 声喩(オノマトペ)の確認をする。

  比喩(モノのたとえ)との違いも確認する。

④ 登場人物を確認する。

「小鳥」「かあさん鳥」「とうさん鳥」「森(の木々)」「語り手」

語り手の言葉→地の文

登場人物の言葉→会話文「 」に書かれていることを説明する。

⑤ 2連の対比を探す

(かあさん鳥―とうさん鳥)

(うれしさ―不安)

(小さな―大きく)

(かたをだく―かたをたたく)

⑥ 1連と3連の対比を考える

(しいんとしずまった―はく手かっさいした)

⑦ 再度全員で全文を音読する。   

⑧ 対比の中から共通しているものを考える。

      「願い」や「愛」

⑨ 人間の本質・真実を考える

「願い」や「愛」はみな同じ。ただし人によって表現の仕方や様子は違う。

⑩ 教師の語り(巣立ちに向けての願い)

⑪ この詩についての感想を書く。 

※ 時間があれば暗唱させる。

この「はじめて小鳥がとんだとき」の主題は,言うまでもなく子どもの「巣立ち」に対しての周囲の「願い」や「愛」である。そこで本学級の学級通信の題名も筆者の願いをこめて「巣立ち」とした。これは卒業に向けての伏線でもある。卒業式当日には,本学級の児童に対する卒業へのはなむけとして再度この詩を示し,筆者の願いを伝えたいと考えている。

では次項において,本研究の土台となる日記指導の実践内容について述べる。

 

3 詩と日記指導

 第四章において,日記指導の目的と意義及び留意点を次のようにまとめた。

日記指導の目的

  ・ 日々の生活を対象として,児童が興味や関心をもったり感動したりしたことを定期的にひとまとまりの文章として表現することを指導し,文章を表現する能力を育成する。

 日記指導の意義

  ・ 教師と児童との心の交流を促し,心のつながりを育てることができる。

  ・ 書くことが習慣化し,書くことへの基本的な態度と能力が養われる。

  ・ 教師の書く評語によって文章の表現や内容の指導をすることができる。

  ・ 児童の内面を解放させ,心のふるえを書かせることが期待できる。

  ・ 日記で表現された文章を何らかの形で紹介することを通して,児童の心と文章表現力を育成することができる。

  ・ 生活を対象とし,感動したことを文章として表現することを通して詩の創作につなげることができる。

日記指導の留意点

  ・ 目的と意義を明確にして児童に伝えることが重要である。

  ・ 負担感をもたせないように取り組ませることが大切である。

  ・ 書く意欲を持続させるための教師の手立てが必要である。

  ・ 書かせる際には相手意識をもたせることが重要である。

  ・ 児童自身の発感や感動をことばで表現させることを重視する必要がある。

  ・ 書かれた内容には必ず反応を示すことが大切である。

  ・ 言葉を大切にしようとする意識をもたせることが大切である。

 以上の点を踏まえ「日記指導年間計画」(2)を作成し,それをもとに日記指導を進めることとした。日記指導の年間計画を作成する際は,本学級の児童の実態に合わせて次のことを念頭に置いた。

本実践における日記指導の目的

  ・ 日々の生活の中で発見した感動を文章で表すことを通して,文章で表現する能力を育成する。

本実践における日記指導の意義

  ・ 教師と児童との心のつながりを育て,学級経営に生かすことができる。

  ・ 自分の思いを言葉で表現することに慣れさせることができる。

  ・ 赤ペン評語によって,作文指導をすることができる。

  ・ 日々の感動を書かせることによって,児童の思いや願いをつかむことができる。

  ・ 優れた表現を朝の会で紹介することで,詩の技法も指導することができる。

  ・ 詩という表現技法のよさを味わわせ,詩の創作指導につなげることができる。

本実践における日記指導の留意点

  ・ 自分の思いを言葉で表現することの大切さを説明し,日記指導の目的を伝える。

  ・ 負担軽減のため毎日の提出は任意とし,週1回の提出を義務付ける。

  ・ 書けない児童への配慮として,課題を与える形の日記指導を実践する。

  ・ 相手意識をもたせるために,教師からは新たな気づきが得られるような質問をし,その質問には必ず返答するよう促す。

  ・ 赤ペン指導により,言葉を大切にしようとする態度を育てる。

課題を与える形の日記指導については異論があろう。なぜなら,日記は本来任意に取り組み,自由に書かれるものであるべきという考え方が一般的だからである。しかし筆者は次の説を参考にして,課題を設定する日記指導の方式を採用した。

『国語教育辞典』では次のように述べている(3)。

自由日記と課題日記

日記は本来書き手にとって自由に書くものであるが,その自由性という角度から考えると,次の二種類に分類できる。自由に書く日記と,ある主題や題材について書く日記とである。(中略)自由に書く日記においても,ある主題や題材について書く日記においても,日記指導という観点からさまざまな工夫がされてきている。たとえば、好きな詩や俳句,短歌などを書き写し,それについて書いたり,ことわざについて書いたり,書く内容は多様になされている。

そもそも学校教育における日記指導には「自由に書く日記」指導と「ある主題や題材について書く日記」指導とがあるということがわかる。そして後者においては、詩の創作指導につなげられる可能性も考えられる。さらに『国語教育総合事典』では次のように述べている(4)。

「テーマにしたがって,一貫して毎日の日記を〈つづけがき〉していく」「テーマ日記」の指導が西郷竹彦によって提唱されている。テーマに即した日記の「つづけがき」とそれの「よみかえし」とテーマ日記に関する「まとめ」の指導を通して,テーマに即して書いてきた日々の生活を「反省的,分析的,総合的に総合的な思考によって再認識」などさせながら,テーマについて「演繹的,帰納的,あるいは類推的に結論を引き出すよう指導」するものである。

 第三章「詩の受容指導」において述べてきた西郷竹彦が「テーマ日記」という指導法を提唱している。テーマ日記の在り方の詳細について述べることは,本研究とは外れるため別の機会に譲ることとするが,こと学校教育の中においては,課題を与える日記指導の方式が日々の生活を振り返らせるために有効に働くものと考えられる。

では次項において柱の三つめ「詩の創作指導」の実践内容について述べる。

 

4 詩の創作指導

第五章第二節において,「青木幹勇の授業実践は,詩の創作指導において有効な実践である」と述べた。なぜなら,「詩の創作指導の実践に必要な条件」を多く備えているからである。ただし課題も残されていた。「詩の創作指導の充実に必要な前提」は満たされていない面があるということであった。

では「詩の創作指導の充実に必要な前提」を満たした上で「すずめ」の授業を実践したら,どのような児童詩が生まれてくるのだろうか。そのことを検証したいと考え,本学級において青木幹勇「すずめ」の授業を実践した。

本実践においても,前述の石川小学校での実践と全く同じ流れで授業を行った。石川小学校の時と大きく違った点は,児童全員が詩を書くことができたということである。詩の創作指導がより効果的に進められたということがわかる。今回はそれらの作品を全て詩集「ひばり」(5)に応募した。コンクールに作品を応募することについては賛否両論あると思うが,これらの児童詩がどのような評価を得るのか興味を覚えたからである。その結果,2名の作品が詩集「ひばり」●月号№●●●に掲載され,共に優良賞を受賞した。その他にも,採用はされなかったものの詩の技法を活用し想像力を発揮して書いたと思われる詩が多数生まれた。その詳細については,第二節において述べる。

第五章第四節では,詩の創作指導における方法・留意点として以下の諸点を掲げた。

・ 児童の「想像力」を養うというねらいを明確にする。

・ 山際鈴子の「生活を見直す」実践を追究し,「日々の生活の中から発見した感動を自分の言葉で表現した詩」をつくらせる。

・ 詩の技法を児童の発達段階に合わせて指導しておく。

・ できあがった作品に書き直しの視点を与え,推敲させる。

・ その詩が「思想型の詩」すなわち「詩の形式によって新しい見方・考え方を提示す作品」となれば望ましい。

そして山際鈴子の詩の創作指導テーマ例を,日記の課題として提示し,詩の創作指導につなげることの可能性を教育現場で試してみたいと述べた。

そこで児童の日記の中から優れた表現を抽出し,日記を素材にした詩の創作指導のための教材を作成した(6)。またその際,教科書教材「表現を工夫して書こう」(7)を補助資料として用いて授業を行い,前述の詩の技法「くりもただ」を指導した。この指導によって生まれた児童詩の分析は次節において述べる。

 

第二節 平成●●年度●●小学校●年●組で生まれた児童詩の分析

 この1年間を通した取り組みの中で生まれきた児童詩は,具体的には次の四つである。

・ 「すずめ」の授業から生まれた詩

・ 「すずめ」に触発されて書かれた詩

・ 日記を素材として書かれた詩

・ 自発的に書かれた詩

したがって本節では四つの項目に分け,それぞれの児童詩の特徴について説明しながら,作品を数編ずつ紹介し批評を加え分析をしていきたい。その際,どのような詩の技法を用いているか,どのような形で想像力が発揮されているかという点について,考察を述べていきたい。

 

1 「すずめ」の授業から生まれた詩

 ここで取り上げる児童詩は,第五章第二節において述べた青木幹勇の「すずめ」の授業から生まれた児童詩である。前述したように石川小学校での実践とほぼ同じ流れで授業を行ったが,本学級においては●●名全員が詩を書くことができた(8)。「詩の環境づくり」や「詩の受容指導」「日記指導」を進めることによって,「詩の創作指導の充実に必要な前提」がある程度満たされていた結果だと思われる。また石川小学校での実践とは異なり,推敲の視点を与えて自分の詩を推敲させる指導も行った。

本項では,その中でも想像力がよく発揮されている詩,自己内面の造形に迫っている詩,心の叫びが引き出されている詩等について紹介する。

 まず評価を受けた作品として次のような詩が生まれた。

 

     シラサギ

           ●・●

 

   ある日小さな男の子が

   私を指していいました

   「あ!白鳥だ!」

 

   いいえ 私はけっして

   白鳥などではございません

 

   住んでいる場所がちがいます

   食べてるものもちがいます

   顔もくちばしの色も全てちがいます

 

   でも先日私白鳥と

   同じところを

   見つけました

 

   それは飛べることです

   私はとても幸せです

   白鳥の羽より色は少し暗いけど

 

 この詩は視点人物をシラサギにして書いたものであり,シラサギの視点から想像力を発揮して書いている様子がうかがえる。シラサギと白鳥の違うところと同じところを捉え,マイナスに思えることをプラスに転化していこうとする思いがよく書かれている。推敲後の詩は次のようなものになった。

 

     シラサギ

           ●・●

 

   ある日小さな男の子が

   私を指していいました

   「あ!白鳥だ!」

 

   いいえ 私はけっして

   白鳥などではございません

 

   住んでる場所がちがいます

   食べてるものもちがいます

   顔もくちばしの色もちがいます

 

   でも先日私白鳥と

   同じところを

   見つけました

 

   それは飛べることです

   私はとても幸せです

   白鳥の羽より色は少し暗いけど

 

   同じ羽があってどこまでも

   飛んでいけることが

   私は幸せです

 

推敲することにより,より言葉のもつリズムを大切にしようとしている様子が見られる。また最後の一連を加えることで,シラサギの幸せを強調し共感を寄せている様子がうかがえる。この作品は,前述の詩集「ひばり」に掲載され優良賞を受賞した。

 推敲前と推敲後の違いがよくわかる詩に次のようなものがある。

 

     インコ

          ●・●

 

  わたしはしゃべる

   だがしゃべっている言葉の

   意味は わからない

 

 わたしはかごの中

   いつもどこに行っても

   かごの中で 飼われている

 

 わたしはあざやかだ

   羽の色はくじゃくにも負けない

   でも見せびらかすことは できない

 

 わたしは人間になつく

   人間にかわいがられるのは

   とてもゆかいで 最高だ

 

この詩は,人に飼われているインコの視点に立って書いた作品である。インコの特徴をよくつかみ,その思いを想像して書いている。この詩を書いた児童は学力が高く,普段から文章も書き慣れている。言葉のリズムを大切にして文章を書くことを好む傾向がある。自らは猫好きで猫を飼っており,後にこの授業に触発されて,自主的に猫の詩を書いた。その詩については後述する。またこの詩を書いた後,前述の詩の技法「くりもただ」を駆使して推敲している。推敲後の詩は以下のようなものになった。

 

     鸚哥

         ●・●

 

  わたしは喋る

   だが しゃべっているコトバの

   いみは わからない

    ああ,いちどニンゲンになってみたい

 

  わたしは籠の中

   いつも どこにいっても

   かごのなかで かわれている

    ああ,いちどにげだしてみたい

 

  わたしは鮮やか

   ハネのイロは 孔雀にもまけない

   でも みぜびらかすことは できない

    ああ,いちどおおぜいのヒトにみてもらいたい

 

  わたしは人間になつく

   ニンゲンに かわいがられるのは

   とてもユカイで さいこうだ

    ああ,わたしはわたしにうまれて…

 

 推敲後は,より言葉のリズムを整えて連構成を工夫し,類比や対比の技法を駆使して書いている。また,漢字やひらがな・カタカナの使い分けを意識して書いている様子がわかる。そして各連の最終行に「ああ…」を加えることにより,鸚哥の思いをさらに深く掘り下げ想像の世界を広げている。

なお本学級の児童は,筆者の詩「ニワトリ」を読み,前述の詩の技法「くりもただ」の指導を受けてから各自の詩を推敲している。以下に紹介する詩は全て推敲後のものである。

 前述の「シラサギ」以外にも,詩集「ひばり」に掲載され評価を受けた詩に次のようなものがある。

 

     ハト

         ●・●

 

 人が言うには

   私の鳴き声はクルッポーと言うらしいです

   泣き声とは何でしょう

   自分のことはよく分からないものです

 

 人が言うには

   私は人になつきやすいそうです

   なつくとは何でしょう

   ご飯をくれるから食べに行くのに

   だめなのでしょうか

   いやならご飯をまかなければいいのに

   人はよくわからないものです

 

 人が言うには

   私の色は灰色で地味なのだそうです

   色とは何でしょう

   ずっときれいだと思っていたのですが

   自分のことは分からないものです

 

 私が思うには

   私は前は人だったと思うのです

   なぜでしょう

   なぜそんなことを考えたのでしょうか

   自分のことほど分からないものです

 

 仲間が言うには

   私は人の言葉が分かるそうです

   言葉とは何でしょう

   いろいろなことは

   きっと分からないことがたくさんあります

   自分も

   人も

   仲間も

   すべてが分からないことだらけです

 

 この詩も詩集「ひばり」に掲載され優良賞を受賞し〈鳥の視点に立って気づく私たち人間の姿。猛暑を忘れるほど作品の世界に吸い込まれてしまいました。〉(9)と評された。ハトの視点に立って想像力を働かせ,人間の真実(人生は分からないことだらけ・自分のことほど分からない)に迫っていこうとする作品である。反復や類比・対比の技法を巧みに用い,連構成にも工夫が見られる。内容や言葉の吟味をさらにしていけば,さらに優れた詩になると思われる。

 また本学級では「カラス」の視点に立って書いた児童が12人もいたが,その中に次のような詩がある。

 

     からす

          ●・●

 

  私は,まァ黒な服を着ている。

   そして、

   きらわれものだ。

   だからといって

   くじけやぁしない

 

  食料を取るために

   ゴミを散らかして

   しまう。

   だからといって

   きらわれちぁこまる。

 

  本当は,

   お腹がすいている

   だけなんだ。

 

  私は,

   人間がこわがったり

   うるさいともんくをいったり

   するから,

   にらみつけている。

 

  お願いだ。

   私の願いを聞いてくれ,

   にらんだり,

   おこったり,

   悪口を言うと,

   私の目つきは,

   ますます,

   悪くなり

   もっと,もっと,もっと

   うるさい声で

   さけんでやる

   「カァー カァー。」

 

からすの視点に立って,からすの気持ちを想像して書いている様子がうかがえる作品である。自分の思いをからすに仮託して書いている様子もうかがえる。この詩を書いた児童は,「すずめ」の授業を受けた後に次のような感想を日記に残している。

 

 

6/28 今日,授業さんかん日でした。私は,「からす」について書きました。自主学習にほかの詩もかいたのでみてみてください。

先生の書いた詩,お母さんに話すと,お母さんは,弟の所へ行っていて聞いていないと残念がっていました。

    本当に,先生の書いた詩,とってもよかったです。

   ※ 筆者注:先生の書いた詩とは前述の「ニワトリ」のことである。

 

6/29 今日,なんとなく,思ったことを,詩でかいてみました。まだ完成では,ありませんが,9個考えました。自主学習には,書いていないのですが。

    詩を書くことがとっても楽しくなりました。

    これからも,続けようと思います。

 

この児童は,小学4年生の頃からずっと日記を書き続けており,これをきっかけにして自発的に詩を書くようになった。言葉のリズムを考え,自分の思いを強調するために行がえの多い詩を好んで書く傾向が見られる。

日記を通して文章を書くことに慣れ,自分の思いを言葉で表現できるようになっていることが,詩の創作指導の土台となることを証明するための好例であると考える。

 同じく「カラス」の視点に立って書かれた詩に次のようなものがある。

 

     カラス

          ●・●

 

   わたしはカラスです。

   鳴き声はすこし目立ちます

   つばめのすをおそいます

   人もおそいます

   でも

   いやがらせをしているわけではありません

   木の上にすがあります

   ひなをまもるには

   たしょうきらわれてもかまいません

 

 この詩もカラスの視点に立って書かれたものであるが,カラスの母親の立場からその気持ちを想像して書いているのが特徴である。この詩を書いた児童は日頃より病弱で休みがちであり,学力もかなり遅れが見られる。母子家庭のためか,親離れ子離れがまだできていない様子が見られ,毎日母親に車で送り迎えをしてもらっている。この児童は母親の自分に対する思いを想像し,カラスにその思いを仮託して書いているようにも思える。なお,この児童は文章を書くこともかなり苦手としているが,この授業の後,日記に自分の思いを書き綴ることができるようになってきた。俳句を書くことにも意欲的に取り組み,本学級の子ども句会で審査員特別賞を受賞した。参考までにその受賞作を紹介しておく。

 

   きのこがり えがおの夕飯 わらいだけ(子ども句会審査員特別賞)

 

 キノコ狩りで収穫したキノコ料理が食卓に上がり,家族の笑顔が並ぶ夕飯の様子が思い浮かぶ俳句である。「笑いだけ」と「ワライダケ」がかけてあり,そのことに気づいた瞬間,その日収穫したキノコが笑顔を呼ぶ「ワライダケ」に変貌する。本来毒キノコである「ワライダケ」との矛盾が,この俳句に深みを与えている。この掛詞の意図に気づいた学級の児童は驚き,その作品を書いた児童がS・Yであったことを知って二重の驚きの声をあげた。

 「カラス」が詩の素材となりやすいのは,カラスが人間から見てマイナスの要素が大きい鳥であり,人間の弱い側面と重ね合わせやすいからだと考察する。自分や周囲の人間を弱者と捉えカラスの姿に重ね合わせることで,マイナス面をプラス面に捉え直していこうとする心の叫びが表現されることが多い。

 自分のマイナス面を捉え,詩を表現することでプラスに転化しようとした詩に次のようなものがある。

 

     ペンギン

           ●・●

 

  僕は飛べない鳥

  みんな出来ることが

  出来ないの

 

  僕は飛べない鳥

  空にうかぶあの雲に

  どうして手が届かないの

 

  僕は飛べない鳥

  月や太陽と

  友だちになりたいのに

 

  僕は飛べない鳥

  だけど、いつか飛べると

  信じてる

 

この詩は,飛べない鳥ペンギンの哀しみを想像して書いたものである。反復の技法を活用して語調を整え,連構成を工夫している。この詩を書いた児童は学力が高く,普段から歌の歌詞を読むことが好きであり,もともと詩のようなものを書くことも好む傾向があった。後に日記でその思いを詩の形で表現している。この児童の母親は療養中であり,父親も単身赴任のため家庭的に不安定で,本人も精神的に不安定なところがあった。小学4年生頃より不登校気味であり,特に理由もなく学校を欠席することがあった。しかしこの詩を書いた後,月ごとに欠席が少なくなっていき,平成25年度2学期からは欠席がほぼゼロになった。現在では不登校は解消したと見られている。この児童は詩を書くことによって自分の内面に迫り,自分の心の叫びを表出することで気持ちの整理をつけ,ついに殻を破り飛ぶことができたのではないかと筆者は分析する。学校に行けない自分を飛べないペンギンに重ね合わせ,それでも希望を忘れたくないという自分の思いを表現した作品だと考える。

自分の内面に迫り,自分の心の叫びを表出した詩に次のようなものもある。

 

      ふくろう

           ●・●

 

   わたしはふくろうです

   さいきんねぶそくでこまっています

   わけは昼ねているときに

   いろいろな音が耳にとびこみ

   うるさくてねむれんのです

 

   食べ物をとりに出かけますが

   最近の虫はかくれるのが上手で

   これまたつかれる

 

   このようにつかれているので

   もうねます

   さようなら

   ホーホーホッホッホー

 

 この詩は,ふくろうの視点に立ってその気持ちを想像して書いているものである。この詩を書いた児童は,高機能自閉症あるいはアスペルガー症候群の疑いがあり,自分が興味を持っていることに関しては高い学習意欲を示すが,興味を持てないことに対しては取り組もうとしない。各教科の知識は豊富に持っていてテストは平均点以上をとることができるが,漢字や計算の練習をすることなど地道な努力を嫌う。文章を読むことは好きだが,自分の思いを文章で表すことは苦手としており,文章で解答をする問題には全く取り組もうとしない。こだわりが強く,自分の行動を阻害しようとするものが現れると激しく抵抗して奇声を発し,パニックを起こす。パニックを起こした時は,暴力的な行動に出たり,幼児語を発したり,完全に意思疎通を遮断して眠ってしまったりすることもある。気温や騒音にも敏感で,特に夏の暑い時期は校内の涼しいところを探して朝から所構わず寝転んでいる。身の回りの整理・整頓をすることも苦手である。筆者は,この児童には詩を完成させることはできないであろうと予想していた。しかし「すずめ」の授業には意欲的に取り組み,時間内にこの詩を書き上げた。推敲する作業には意欲を示さなかったものの,生き生きと清書に取り組み,完成した作品に満足気な表情を見せていた。この詩は,この児童が自分の姿をふくろうに仮託して,自分の心の叫びを表出したものであると筆者は捉える。詩の創作が児童の心の叫びを引き出し,その作品が自己内面の造形につながった一例だと評価する。

ここまで「すずめ」の授業から生まれた児童詩の分析を行ってきた。次項では、「すずめ」に触発されて書かれた児童詩について分析する。

 

2 「すずめ」に触発されて書かれた詩

 ここで取り上げる児童詩は,「すずめ」の授業後六月から八月にかけて児童が自主的に書いた筆者に提出してきた詩である。その中でも「すずめ」の詩の形式を真似て書いたと思われる詩,あるいは視点人物の条件を自分以外のものにして書いた詩について,特徴的なものを紹介する。鳥や鳥以外の動物を素材にして書いた詩がいくつか生まれたが,特に興味深いのは花の視点に立って書かれた作品が生まれてきたことである。

 花の視点に立って書かれた詩に次のようなものがある。

 

     ひまわり

           ●・●

 

 私は上を向いている

   上を向いてそだっている

   なぜ上を向いているのだろう

   なぜだろう

 

 上を向いてそだってきて

   ようやく分かった

   おひさまに向かっているのだ

 

 私はおひさまに向けてそだっていく

   ぐんぐん どんどん

   いつまでもそだっていく

   いつか太陽に届くまで

 

 この詩は,ひまわりを擬人化し、ひまわりの視点から想像をめぐらせて書いた作品である。類比・対比の技法や倒置法の技法を用い,ひまわりの特徴を効果的に表現している。声喩も活用している。普段目にしているのに見えていないことに気づき,その発見の感動を言葉として表現することのできた「本研究で定義するよい詩」であると筆者は捉える。

 花の視点に立って書かれた詩には次のようなものもある。

 

    アサガオ

           ●・●

 

   ぼくはアサガオです

   ぼくは,はやおきです

 

   ぼくのなかまはいろいろいます

   むらさきしろピンクあか

   そしてぼくあお

 

   ぼくたちが

   生きていられる時間は

   このあついなつだけだけど

 

   それだけいきられればじゅうぶんです

 

 この詩は,アサガオの視点に立ちその思いを想像して書いた詩である。この詩を書いた児童は学習意欲が低く,文章を書くことを苦手としている。日々の日記指導を通しても3行以上のまとまった文章を書くことは難しかった。したがってこの児童にとっては,思いを表現する手段としては散文より詩の方が効果的である可能性が高い。また自主的に,しかも言葉のリズムを考えながら丁寧に言葉を綴ってきたことを考えると、詩を書くという作業は言葉を大切にしようとする態度を育てるために有効であることがわかる。

これらの詩以外にも花を素材としたものが多く生まれている。花が詩の素材として選ばれやすい理由としては、まず季節を感じさせる身近な存在であるということ,次に色や香りや姿などの特徴が捉えやすいということ,そして自分の弱い部分を投影しやすい存在であることなどが考えられる。

 次第に,動物や植物の他にモノ(無生物)の視点に立って書いた作品も生まれてきた。次のような詩がある。

 

   けしごむ

           ●・●

 

   人がまちがえた字を消す

   それがぼくけしごむ

   たまにころがっていっちゃうけど

   ご主人様が見つけてくれる

 

   何でも消せるわけじゃないけど

   ご主人様のやくにたつなら

   それでいい

 

   ボールペンの字や

   チョークの字などは

   消せないけど

   やくにたつなら

   それでいい

 

この詩は,擬人化された消しゴムの視点からその思いを想像して書いたものである。「けど」のくり返しによって連構成を工夫し,「やくにたつなら」「それでいい」の反復を効果的に用いている。「ご主人様」は紛れもなく自分のことであり,「けしごむ」は自分の持っている消しゴムのことであろう。普段何気なく使っている自分の消しゴムに注意を向け,使っている立場と使われている立場との視点の転換を行うことで,消しゴムの価値を再認識している。一見価値の無いようなモノから価値を見出す,すなわち「矛盾」は詩の重要な技法である。この児童は詩を書くことによって,普段見落としがちな消しゴムの価値に改めて気づき,新たな価値を見出すことができたのである。ここには本研究で養おうとしている想像力が発揮されていると考える。

 身近なモノを素材にして書いた詩に次のようなものもある。

 

     サッカーボール

              ●・●

 

   毎日毎日遊んでもらえますが

   実は体中きずだらけです

 

   毎日毎日体をけられ

   たまに気絶してしまいます

 

   キャッチされるときも

   ありますが

   すぐにまたけられます

 

   けられるのは痛くていやですが

   遊んでくれないと

   ちょっとさみしいです

 

   この後もけられると思いますが

   楽しそうな顔を見ると

   こんな痛みへっちゃらです

 

 この詩は,サッカーボールの視点からその思いを想像して書いたものである。ボールを擬人化し,ボールの気持ちを代弁する形の詩である。詩の形式としては「すずめ」の詩の形をかなり真似ている。この詩を書いた児童は,地域のサッカーチームに所属してキャプテンを務めており,ほぼ毎日練習に明け暮れている。第4連の〈遊んでくれないと/ちょっとさみしいです〉や第5連の〈楽しそうな顔を見ると/こんな痛みへっちゃらです〉からは,自分の普段使っているサッカーボールに対する労りと愛情が感じられる。

 身近なモノ,とりわけ毎日使っているモノや愛着のあるモノが詩の素材になりやすいと言える。身近ではあるがさらに大きなモノを素材にした詩も生まれた。

 次のような詩がある。

 

     家のつぶやき

             ●・●

 

   私は,

   家である。

   私の家族は,

   毎日のように

   出かけていく

 

   私は,

   ずるいと思う。

   いっぱい遊んで来て

   私の所に帰ってくる,

   私は

   一歩でさえ

   歩けない。

 

   よく考える。

   私のとなりにいる友達も

   みんな

   がんばって

   雨の日も

   風の日も

   嵐の日も

   立っている

   一歩もうごかず

 

   雨の日は,

   なみだを

   ながしながら

   つっ立っている。

 

   そういう人間は,

   かわいそうだとは,

   思わないのだろうか。

   自分だけぬれずに

   なみだもながさずに,

   不しぎだ。

 

   となりの,

   おばさんから

   食べ物をもらう

   だけど

   私の分はない

   次は,

   私の分も

   ちょうだいね。

   いつも

   いっているが

   くれない

   やっぱり不しぎだ。

 

この詩は前述の「からす」の詩を書いた児童のものである。家を擬人化して,その哀しみを想像して書いた詩である。この児童は,これ以外にも視点人物の条件を動植物やモノに設定した詩を数多く残しているが,このように行がえの多い詩を好んで書く。この児童にとっては,これが自分の思いを伝えるために最も効果的なリズムなのであろう。言葉を吟味して精査し,句読点や文字の使い方に意識を向ければさらに優れた詩が書けるようになるであろうと考える。題名については一ひねり加えていて興味深いが,概して前項と本項の詩には題名に工夫があまり見られない。題名についての指導の手立てがさらに加われば,児童の詩にも変化が見られるであろうと考える。

 視点人物を動植物やモノという具体物ではなく,感情という抽象的なモノに設定した詩も生まれた。

 

     反抗心

          ●・●

 

   わたしは

   だれの心の中にひそんでいる

   感情です

   赤ん坊にはまだありません

 

   ようち園で芽が出て

   小学校で葉が出て

   中学校で花が咲く感情です

 

   怒ったりすると

   顔に出ちゃうので

   あまり怒らないでください

 

   これからは

   あんまり怒らないように

   してください

 

 この詩は,「反抗心」という抽象的な感情を擬人化し,その視点から想像をめぐらせて書いたものである。この詩を書いた児童はいわゆる「キレやすい児童」である。学習意欲は高く授業にも積極的に取り組むが,こだわりが強く自分の意見を否定されることを嫌う。こだわりが強いためか,食べ物の好き嫌いも極端に激しく,野菜はほとんど口にすることができない。カッとなると目を三角にして怒りの表情を見せ,友達に対して暴力をふるったり教師に対しても暴言を吐いたりしてしまうことがある。落ち着きを取り戻した後は,それまでの言動を恥じ,その非を認めて詫び反省することができる。この児童はこの詩を書くことによって自分の内面を振り返り,抑えきれない自分の感情が「反抗心」であると認め,その感情を制御し生活を改善していきたいと願う心の叫びを表出したものと考える。

 視点人物の条件を自分以外のモノにして書き,その視点に立って想像力を働かせることの楽しさを味わった児童は,自主的に次々と詩を書いてくる傾向がある。それはこのスタイルの詩を書くことが自己内面の造形につながりやすく,心の叫びを表現するために有効であるからだと考える。その意味で「すずめ」の授業は詩の創作指導の入門として有効な手段であり,「すずめ」の詩は創作指導のモデルとして妥当なものであると言える。

書き慣れてくると,次第に「すずめ」の詩の形式からの脱却を図るようになり,視点を転換することなく第三者の視点でモノを捉えて詩を書く児童も出てくる。

 前述の「インコ」の詩を書いた●・●は次のような詩を書いた。

 

    猫

        ●・●

 

 ねこは あいされていきる

    ひなたで ごろんとよこになり

    なでてもらうのを まっている

 

 ねこは かわいがられていきる

    あしもとに しずかにすりより

    なでてもらうのを まっている

 

 ねこは ほめられていきる

    むしを とってきて

    なでてもらうのを まっている

 

 ねこは なでられていきる。

 

 この詩は,飼い猫の様子を描き猫の本質に迫ろうとしたものである。猫の視点から想像をめぐらせて書いた詩ではないが,間違いなく「すずめ」の授業に触発されて書かれた詩である。この詩を書いた児童は家で猫を飼っており,その猫を大変に可愛がっている。そして「インコ」の詩を書く経験を通してペットの思いを想像する楽しさを味わい,次は自分の愛する「猫」の詩を書いてみたいと考えたのではないかと推測できる。〈あいされていきる〉〈かわいがられていきる〉〈ほめられていきる〉の類比と〈なでてもらうのを まっている〉の反復を軸に連を構成し、猫は〈なでられていきる〉生き物なのだとまとめているところが秀逸である。題名以外の文字はあえてひらがなのみを用いたところも工夫である。猫のやわらかいイメージを出したかったのであろう。

 「すずめ」の授業から生まれた詩は,楽しみながら取り組んだ結果として生まれた詩だとしても,あくまで「書かされた詩」である。しかし「すずめ」の授業に触発されて書かれた詩は,表現したい・伝えたいという思いから生まれた詩,すなわち「書きたかった詩」なのである。

次項では,日記を素材として書かれた詩の分析を行う。

 

3 日記を素材として書かれた詩

 ここで取り上げる児童詩は,日記を素材として書かれた児童詩である。すなわち日記として書いた内容を詩の形式に紡ぎ直したものである。

この日記を素材とした詩の創作指導を進めるにあたって,20●●(平成●●)年11月に「詩の技法を活用して詩を書こう」という授業を行った(10)。授業の大まかな流れは次のようになる。

 

① 児童の日記の中からモデルとなる文章を提示する。

② その原文を分かち書きにして、元の文章と比較する。

③ 前述の詩の技法「くりもただ」を活用して推敲する。

④ 元の文章と詩に直したものを比較・検討する。

⑤ 自分の日記を読み返し、詩の素材となる文章を探す。

⑥ 詩を書く。

 

この授業は,東京書籍の小学校6年国語教科書(上)に掲載されている4月の詩の創作指導単元「表現を工夫して書こう」を再構成し,時期を入れ替えて実施したものである。教科書通り4月に実施しなかった理由は,本学級の児童が「詩の創作指導の充実に必要な前提」をまだ満たしていないと考えたからである。また授業の流し方については,筆者が2012(平成24)年に計画・立案した授業「散文を詩化する」が下敷きになっている(11)。

 この授業を通して,児童は今まで書いてきた自分の日記を全て読み直し,お気に入りの文章を詩の形に書き直す作業を行った。その過程で児童は自分自身の言葉の中から新たな発見をし,その発見から新たな感動を覚え,その感動を他者に伝えたいという願いをもつことができた。この実践からは次のような児童詩が生まれている。

 

     六年生になって

             ●・●

 

   最高学年なので

   礼儀正しくして

   下級生のお手本になりたい

 

   勉強では

   七十分

   苦手な教科を勉強して

   テストでは

   良い点数をとりたい

 

   運動では

   陸上大会への

   体力づくりと

   練習をがんばりたい

 

   あいさつは

   どんな時も

   よくなるようがんばりたい

 

   新一年生が入って来るので

   せきにんがあり

   とても

   きんちょうしている。

 

「六年生になってがんばりたいことを書こう」という課題について書いた日記を素材とした詩である。この詩の元となった日記は以下のようなものであった。

 

    六年生になって

  

  最高学年なので,礼儀正しくして,下級生のお手本になるようにしていきたい。

  勉強では,七十分,苦手な教科を勉強していきテストでは,良い点数をとりたい。

  運動では,陸上大会への,体力づくり,練習をがんばりたい。

  あいさつなどは,どんな時でもよくなるようがんばりたい。

   新一年生が入って,歩くのでせきにんがありとても,きんちょうしている。

 

 とりわけ想像力が発揮されている様子は見えないが,詩として表現することで,自分の思いをより効果的に伝えたいという気持ちが表れている。言葉を大切にしようという態度も養われてきていると分析する。しかしながら形としては,読む時に適当だと思われるところで行がえをし,語調を整えるために言葉を削除したり修正したりしただけのものである。面白味のある詩とは言い難い。

 そこで次の詩を紹介する。ただ行がえをして語調を整えるだけでなく,そこに詩の技法を加えることにより完成度を高めている作品である。

 

 

    日光浴

         ●・●

 

 観察した しばざくら

   2種類

   濃い桃色と白色の花

 

 太陽のひかりをあびて

   きもちよさそう

   やわらかな香り ただよう

 

 さらさらな手ざわり

   花びら

   絹のように なめらか

 

 ちがうところも見つけた

   大きさともよう

   白のほうが小さくて 清楚め

 

 最大のとくちょう

   この花は

   いくつもの花が あつまり

 

 まるで 花園。

 

 この詩は「春を見つけよう」という課題について書かれた日記を素材として書かれたものである。

ではこの詩が成立するまでの過程を追ってみよう。もとの日記の全文は以下のようなものであった。

 

   春の植物観察

 

私が,観察した植物は,しばざくらだ。観察したしばざくらは,2種類。こいピンクと白い花だ。どちらの花も,やわらかな香りがした。手ざわりは,サラサラ。花びらはとてもやわらかい。ピンクと白の花ではもようがちがっている。ピンクの花の,主な色はピンクとこいピンク。一方,白は主な色は白だけだ。花の大きさがちがうこともわかった。少し白の方が小さい。この花は,一つだけでは咲いていなかった。いろいろな事に気付けて良かったと思う。

 

この文章を行がえすることによって,まず次のように書き換えている。

 

     春の植物観察

 

   しばざくら

   観察したのは2種類

   こいピンクと白い花だ

   どちらの花も

   やわらかな香りがした

   手ざわりはサラサラ

   花びらはとてもやわらかい

   ピンクと白の花では

   もようがちがう

   ピンクの花はピンクとこいピンク

   白は白だけだ

   花の大きさもちがう

   少し白の方が小さい

   この花は

   一つだけでは咲いていなかった

   いろいろな事に気付けて良かった

 

 このような児童作品が生まれた時によく議論されるのは,これが詩であるのか散文を行がえしただけのものであるのか,ということである。筆者は,行がえのタイミングに児童なりのリズムが感じられ,伝えたいという思いをより強く感じることができるので,この作品を詩として捉えるが,よい詩であるとは確かに思えない。想像力の発揮された様子があまり見られないからである。

推敲前と推敲後の作品を比較すると,詩の技法を活用して自分の感動をより効果的に伝えようという思いが表れていることが分かる。内容を詳しく分析してみると,五感を働かせて発見した感動を声喩や体言止めの技法を駆使して表現していることが分かる。また観察した花の同じところと違うところに気づき,本来同じ花の集まりであるものを花園とたとえたところに想像力の発揮が見られる。題名を安易に「しばざくら」とか「春を見つけよう」にせず〈太陽のひかりをあびて/きもちよさそう〉を受けて「日光浴」としたところにも工夫が見られる。

散文を行がえしただけのものと詩との違いは,自分の思いをより効果的に表現するために詩の技法を意識的に活用しているかどうかにあるということが,この作品の成立過程から読み取れる。

 この詩以外にも,「春を見つけよう」という課題の日記を素材として次のような詩が生まれた。以下は,全て推敲後のものである。

 

   観察カード

            ●・●

 

 ぼくは校庭で,

   たんぽぽを見つけた,

 

 まん中に,

   ちょうのたまごのようなものを見つけた,

 

 外側は,

   ちょうのしょっ角のような、

   細いいとのようなものがあった,

 

 たんぽぽも,

   近くで見ると,

   見えなかったものが見えた。

 

 この詩も「春を見つけよう」という課題について書いた日記を素材にした詩である。比喩を活用して,新たな発見に対する感動を素直に表現している。視点を変えると見えなかったものが見えるということに気づき,それを自分の言葉で表現できたところにこの詩のよさがある。詩を書くことを通して「想像力(見えないものを見る力)」を養うというねらいが達成されている。この後に,人間の真実を表現するような連を加えることができるようになれば,さらに深みのある詩になると思われる。

 日記を素材として書かれた詩は,日々の生活を振り返って特に感動を覚えたことを表現したものなので,「生活詩」のような形式になることがある。「春を見つけよう」という課題から生まれたこの二例は,まさに「生活詩」である。

しかしながら本研究における日記指導では児童の目標や希望・欲求などを書かせることが多いので,それを詩として表現されると,いわゆる「たいなあ詩(主体的児童詩)」のような形をとることが多くなる。そして次のような作品が生まれている。

 

   私の得意なこと

              ●・●

   私の得意なことは

   水泳だ

   水泳は小さいころから

   習っている

   今はタイムの勝負だ

   自分との

   勝負でもある

   将来は

   水泳選手に

   なってみたい

 

 「自己PRをしよう」という課題について書いた日記を素材とした詩である。文章をただ分かち書きにして句読点をとり,文末表現を敬体から常体に直して語調を整えただけのものであるが,水泳選手になりたいという思いがよく表現されている。水泳が「タイムの勝負」と「自分との勝負」であるということに気づき,「勝負」という点では類比であるが,「タイム」と「自分」は対比であるということをよく捉えている。ここに想像力の発揮が見られる。

 文末表現が「~たい」の形をとる詩が他にも数多く生まれた。次のような詩がある。

 

      手本になりたい

              ●・●

 

   私が六年生になってがんばりたいことは

   下級生の良いお手本になることだ

   あいさつ

   しっかりとしたマナーなど

   目に見えるものも大事だが

   プールそうじ

   草取りなど

   目に見えないものも大切だと思う

   毎日お手本にされていることを

   自覚し

   一生けん命がんばっていきたい

 

 「六年生になってがんばりたいことを書こう」という課題について書いた日記を素材とした詩である。文章をつなげれば,もとの日記に戻ってしまうような作品ではあるが,行がえのタイミングに言葉を大切にしようとする態度が見られ,作者の思いがよく伝わってくる。また,〈目に見えるものも大事だが〉〈目に見えないものも大切だと思う〉ということに気づいている点を評価したい。すなわち,「想像力(見えないものを見る力)」を養うことが詩を書く目的なのだという筆者の指導に,この児童はよく耳を傾けているということになる。

 「~たい」の形の詩に次のようなものもある。

 

 

     陸上に向けて

             ●・●

 

   陸上競技大会に向けてやりたいことは二つ

   一つ,どの競技になっても全力

   二つ,練習でも本番でも

   ふざけずに集中

   ぼくはこの二つをがんばり

   いい記録をだしたい

 

 「陸上競技大会に向けてがんばりたいことを書こう」という課題について書いた日記を素材とした詩である。体言止めを効果的に使用し,歯切れよく読みやすい詩になっている。一見,自分の決意をただ述べただけのように思える作品ではあるが,普段気づいていない自分の内面を明らかにする,すなわち「普段見ているのに見えていないものを言葉で表現」し,詩の技法を活用して効果的にその思いを表現するという点において,この作品は紛れもなく詩であるし,そこには想像力の発揮が見られる。日記を素材とした詩を書くことは,自己内面の造形にもつながり,心の叫びを引き出すためにも有効であると言える。

 陸上競技大会に関するものとして,次のような詩も生まれた。

 

     陸上終えて 今後の課題

                  ●・●

 

   陸上競技大会当日

   感情色々グルグルと

   うずまきのように 混じってる

   リレーとハードル 行う前は

   ドキドキ きん張

   ワクワク 楽しみ

 

   リレーは新しい 記録が出

   ハードル コケても 無事3位

   1位と差は あっとうてき

   それでも 強く後悔する

   自分に 強く 後悔

 

   でも みんなに アリガトウ

   みんなの協力 アリガトウ

   みんなの応援 アリガトウ

   先生 手当を アリガトウ

   先生が指導とアドバイスを

   くれたおかげで良い結果

   友達 応援 アリガトウ

 

   これからも どんなに

   小さい事でも

  ベストを尽くして

 

  アリガトウ

 

 「陸上競技大会を終えての感想を書こう」という課題について書かれた日記を素材とした詩である。言葉のリズムをよく考えて書いており「アリガトウ」の反復が特徴的である。本学級の目標の一つに「周囲に感謝の気持ちをもつ」があり,本学級の児童は帰りの会における「今日のありがとう」というコーナーで,友達に感謝の気持ちを「ありがとう」という言葉を添えて伝え合うという活動を2年間行ってきた。そのことがこの詩の成立に大きく関わっていると分析する。声喩の使い方も独特で興味深い。この詩を書いた児童は帰国子女で二ヶ国語を流暢に話し,普段から英語と日本語の詩の両方に興味をもってよく読んでいることが影響しているのではないかと推測する。また谷川俊太郎の「ことばあそびうた」の音読・暗唱にも意欲的に取り組んでいることも無関係ではないだろう。

 普段から詩を読んだり書いたりしている児童は,次第に独特のスタイルを作り上げていくようになる。前述の「からす」「家のつぶやき」を書いた●・●は、次のような詩を書いた。

 

     一生けん命な姉

              ●・●

 

   私には,

   友部中学校に,

   姉がいる。

   ソフトを

   やっている。

   5月3日に

   行われた大会を

   見に行った。

   姉のチームは,

   負けていた。

   だけど,

   みんな

   最後まで

   一生けん命だった

   まるで,

   プロの試合を

   見ているようだった。

   10対4という

   結果で

   負けた。

 

   だけど,

   一生けん命な,

   姉,チームを

   見ると,

   負けたのに,

   カッコイイ

   と思えた。

 

   私は,

   この試合を

   見る前から

   入りたかったが,

   この試合を

   見てから,

   もっと入りたくなった。

 

   もう,

   姉の試合を見る事は、

   出来ない。

 

   今度は,

   私が,

   一生けん命に

   なる番だ。

 

   どんな

   結果でも

   一生けん命になりたいな

 

「最近感動したことを書こう」という課題について書かれた日記を素材とした詩である。この作品もやはり行がえが多い。詩としての完成度は決して高くないが,〈負けたのに,/カッコイイ〉という矛盾を表現したところを評価する。たとえ負けたとしても,一生懸命取り組む姿にこそ美しさがあるということに気づき,その発見の感動を伝えたいという思いがよく表れている。行がえの多さは,より言葉を大切にしたいという思いの表れであり,これが作者にとって最もそれを強調できるリズムなのであろう。句読点の使用の有無や行がえのタイミングを吟味し,その必然性を自分なりに見出すことができるようになれば,さらに深みのある詩になるであろうと考える。

行がえのタイミングは人それぞれであり,自分にとって最も効果的に思いを伝えられるリズム・読んで心地よいリズムというのは異なるということが分かる。第五章第三節で詳述したように,北原白秋が詩の創作指導を進めていく過程で「外的リズムより内的リズム」を重視し,「童謡から児童自由詩」への転換を図った経緯が理解できる。

2行ずつのリズムを好む児童の詩に次のようなものがある。

 

 

    親子の集い

            ●・●

 

 今日は親子の集いだった

   豊田先生に合気道をならった

 

 ミットは手足を当てるものだ

   当てるところをまちがえるととてもいたい

 

 護身術はあやしい人にやるわざだ

   本気でやるととてもいたい

 

 あやしい人をふりきるわざをならった

   どうやっても上手にできた

 

 合気道はとてもやくにたつ

   どこでも使えるしかんたんだ

 

 今日はとても楽しかった

   小学校さいごだったから

 

 「親子の集いの感想を書こう」という課題について書いた日記を素材とした詩である。20●●(平成●●)年10月に本学級の親子行事として「親子護身術教室」が実施され,筆者がその講師として合気道を指導することがあった。この児童にとって合気道は初めての経験であったが,理にかなった体の動かし方をすれば体格や筋力に関わらず技を施すことができるという合気道の術理をよく捉えている。この詩を書いた児童は,趣味の鉄道に関する記事をネット上で公開したり,趣味の仲間とメールを交換したりすることで,普段から文章を書くことには慣れていた。日記においても1日に2~3頁を苦もなく書いていた。しかし詩として表現する場合は,このように1連2行の形式を好む。前の1行を事実,後ろの1行を意見や感想にあててそれを1連とし、そのくり返しによって詩を書くという形式で詩を書く傾向がある。最後の2行を倒置法にすることで,楽しかった思いを強調しているところに工夫が見られる。この児童にとっては,この形式が最も自分の思いを伝えやすいリズムなのであろう。

リズムを重視すると言えば,歌と歌詞の存在も軽視することはできない。現代の児童にとっては詩集に書かれている詩を読むより,歌の歌詞を読むことのほうが身近だからである。歌詞が詩かどうかという議論については様々な意見があることと思うが,歌に興味をもって歌詞の内容を読むことは,詩の創作指導によい影響を与えることがあると考える。言葉のリズムを大切にしたり,比喩や反復などの詩の技法を活用したりしているという点において,歌詞と詩は共通するものがあるからである。

 歌詞を読むことに興味を覚えている児童の詩に次のようなものがある。

 

     歌詞の力

           ●・●

 

 私のしゅみは

   音楽を聴くことだ。

 

 色々なアーティストさんの

   曲を聴き,

   楽しんでいる

 

 その中でも,

   気に入った曲は

   歌詞に気をつけて聴く

 

 歌詞には,

   勇気づける力

   共感する力

   などがある

 

 これからも

   メロディーだけでなく

   歌詞にも

   気をつけ,

   音楽を聴きたいと思う

 

 「自分のしゅみについて書こう」という課題について書かれた日記を素材とした詩である。この作品を書いた児童は,前述の「ペンギン」の詩を書いた●・●である。この詩を書いていた時点で,この児童は不登校を解消していた。様々な苦悩を抱え込んでいた中で,歌詞を読むことを通して勇気づけられたり,共感したりした経験があったのであろう。そのことを想起して書かれた詩である。歌の場合,ともすればメロディーの方に目が向きがちであるが,それだけでなく歌詞の力に気づいたところを評価したい。詩としては面白味のあるものとは言えないが,このような詩を学級全体に紹介することによって,共感を覚えたり新たな気づきを得たりする児童が増えるのではないかと考える。

 「自分のしゅみ」について書くことは楽しい作業なので,それを詩の形にすることは比較的抵抗が少ないようである。次のような作品も生まれた。

 

    私のしゅみ

         ●・●

 

   私のしゅみは読書だ

   幼いときから

   本にかこまれてきた

   物心ついたころには

   漢字がよめた

   まわりの大人は

   ほめてくれたけど

   うれしくはなかった

 

   私は昔から本がすきだった

   昔から本ばっかり読んでいた

   シンデレラなどはもちろん

   少し大人むけの本もよんだ

   少し大人むけの本がおもしろい

 

   私の母も本がすきだ

   だからたくさんたくさん

   家に本がある

   だからよんだ

 

   昔母に

   たくさんよんでえらい

   とほめられた

   うれしかったので

   これからも本をよもうと思う

 

   私の好きな本は

   ダゴンという本だ

   ラヴクラフトという人

   の本だ

 

   中はとうてい

   ふつうの人なら

   手は出ない

   そんなすききらい

   がすごく分かれる本

   だが

   私はその本がすきだ

 

 同じく「自分のしゅみについて書こう」という課題について書かれた日記を素材とした詩である。この詩を書いた児童は,4月の始業式間際に市内の小学校から転入してきた。本校は全学年単学級のため,小学校の六年間ほとんど同じメンバーで生活する。そのため,転入生は自分の居場所づくりに苦労をする傾向がある。この児童は学習意欲が高いとは言えず,身のまわりの整理・整頓を苦手としており,宿題等の提出率も悪い。日記は出さない日も多かった。ただし友達が少ないこともあってか,読書には熱心に取り組んでいた。そして幼き日から今までの読書生活を振り返り,書いた詩である。幼い頃に周囲の大人が褒めてくれたことは,自分にとっては当たり前のことで格別嬉しいことではなく,母に褒められたことこそが嬉しかったとのだということに気づき,改めて母の存在に感謝している。また,〈ふつうの人なら/手は出ない〉とする自分の好きな書名と作家を明らかにしている。新しい環境の中で自己開示をするということは時として困難を伴うものだが,詩という形式を借りると容易になりやすいということがわかる。この詩が書かれた後,この児童は共通の趣味をもつ友人を見つけ,学級の中での居場所を作ることができた。

 詩を書くことを通して,マイナス面をプラスとして捉え,自分の殻を打ち破ろうする児童の姿をいくつか見てきた。次の詩もそのような一例である。

 

      一学期楽しかったこと

                 ●・●

 

   一学期楽しかったことが

   2つあった。

   一つ目は,

   骨の治り方がわかったことだ。

   仮ぼうちょうや

   仮骨のことがわかり

   骨のすごさがわかった。

   二つ目は

   ソフトボールの練習のことです。

   三時間あったけど

   それが短く感じるほど

   楽しかった。

   せっかく練習をしたから

   優勝したい。

 

 「1学期をふりかえって書こう」という課題について書かれた日記を素材とした詩である。この詩を書いた児童は,前述の「反抗心」を書いた児童である。この児童は,食事の好き嫌いが激しいためか,骨折等のケガも多い。陸上競技大会を目前にして腕を骨折し,大会に参加できなかったというマイナス面をプラスに捉えて,一学期の楽しかったこととして表現している。それまでには見られなかった態度である。骨折することが無ければ見えなかったであろう骨のすごさ,すなわち生命の素晴らしさに気付き,その発見の感動を率直に表現している。またソフトボールの練習についても,この児童はこの年初めての経験であり,最後までレギュラー出場することはなかった。しかし,恐らくは厳しかったであろう練習に耐え,その練習自体を楽しかったと表現するところにこの児童の成長を感じた。一見価値のないようなものに新たな価値を見出したり,マイナス面をプラスに転化しようとしたりするものの見方・考え方が,詩を書くことによって養われてきていると考える。

 

 日記を素材として詩を書かせることは,詩と散文の違いを捉えさせる上でも有効だということも分かってきた。詩が詩として成立するためには,詩の技法を活用することで自分の思いをより効果的に伝えようとする意識が大切なのである。

本研究における児童に書かせたい詩の姿は「想像力(見えないものを見る力)を発揮して発見したものを言葉で表現したもの」であった。児童は日々の生活から発見した感動を日記の中で表現していく。そしてその表現に対する反応があれば,児童は自分の思いをもっと書きたいと考えるようになる。さらに自分の思いをより効果的に書こうとするために,言葉を大切にしようとする態度が育つ。そこに日記を書いたり読み返したりする過程でその言葉の中から新たな発見をし,新たな感動を覚える。そしてその感動を他者に伝えたいという思いが高まり,ここに教師の手立てが入れば,児童が日記を詩として表現してみようとする態度が生まれてくるのである。日記を素材とした詩の創作指導の意義はここにある。

 ここまでに紹介した詩は,教師の手立てが入ることによって生まれてきたものであった。次項では,教師の積極的な指導の手が入ることなく児童が自発的に書いてきた詩について分析する。

 

4 自発的に書かれた詩

 ここで取り上げる児童詩は,児童が自分の日記ノート等に自発的に書いてきた詩である。その中でも,自分の思いをより効果的に伝えるために詩の技法を活用しようとしている詩,また言葉を大切にしようとする態度が見られる詩,日々の生活から発見した感動を自分なりの言葉で表現している詩,また前述の足立悦男が定義する思想型の詩「詩の形式によって新しい見方・考え方を提示する作品」だと思われる詩について紹介する。

なお,前項の末尾において「教師の積極的な指導の手が入ることなく」と述べたが,前もって筆者は「日記を詩のような形で書く」ことをしても構わないと児童に話している。それを受けて書かれた詩も,この中には含まれていることを付け加えておく。言い換えるなら,日記を詩の形式で書いたものとも表現できる。「日記を詩のような形で書く」という考え方は,前述した野口芳宏の「詩日記の指導」を参考にしたものである(12)。

では次より羅列的に紹介していく。

 

     宝くじが当たったら…

                 ●・●

 

   宝くじが当たったら

   家族全員で 世界を一周したい

   一つ残らず 小さい国も

   全部全部 家族で見たい

 

 この詩は,「たいなあ詩(主体的児童詩)」の手法を実践した際の初期によく出てくるタイプのものである。自発的に書かれる詩としては,このような形式のものが多く見られる。自分の欲求を言葉で表現するということは楽しい作業であり,それを詩の形式で書くことは容易であるからだと考える。家族を大切にしている思いが,詩の中の表現によく表れている。さらに自分の内面を掘り下げ想像の世界を広げて書けば,面白味のある詩になるであろうと考える。

 

      最近よくやってること

               ●・●

 

   私の犬は 老犬だ

   あと何年もつか わからない

   だから私は 写真を撮っている

   私の犬の 写真や動画を 撮っている

   思い出を残している

 

   私の大好きな「シンディ」を

    忘れないために

 

 この詩は,自分の飼い犬との関わりを描いたものである。可愛がっている犬の写真や動画を撮ることが,ただの記念写真を撮ることではなく思い出を残す作業なのだと気づき,その感動を伝えたいという思いが表現されている。〈忘れないために〉の前に一マス空白を入れたところに,作者の強い思いを感じる。近いうちに訪れるであろう別れの瞬間を思い浮かべるとせつなさを覚えるが,同時に児童と飼い犬の触れ合いのあたたかさが感じられる詩である。

 

    夏休み

          ●・●

 

   夏は暑くて

   汗かくし

   服が

   ビチョビチョ

   ぬげないし

   夏は暑くて

   げんかいだ

 

   夏は暑くて

   くるしいな

   虫にさされて

   かゆみが出るし

   日なたは暑く

   熱こもる

 

 この詩は言葉のリズムを重視して書いた詩である。内容面で特筆すべきものはないが,夏の鬱陶しさが七五調のリズムで強調されている。この詩を書いた児童は,2学期の掲示係のリーダーとして,メンバーの中心となって掲示用の詩を選定し進んで視写していた。特にリズムがよく読みやすい詩を選ぶ傾向があり,そのことが自分の詩作に影響しているものと考えられる。

 

     夏休み

          ●・●

 

   夏休みが終わりを告げようとしている。

   長かったのか 短かったのか

   楽しかったのか つまらなかったのか

   思い出に残っていることは

   金管のコンクールとソフトボールの大会

   まあいいや。ふたつとも良い結果が残せたから。

   本当に残ったのは

   宿題だ。

   冬休みこそ

   早くやろうと

   誓った

 

 

 この詩を書いた児童は様々な問題を抱えており,5年生の時は担任教師にも反抗的な態度を見せるなど自暴自棄に陥っていた。複雑な家庭事情の中で生活しており,家庭にも学校にも居場所が無く,常に不満を周囲にぶつけながら生活をしていた。6年生になってからは,やや落ち着いた生活ができるようになり学習への意欲も見せ始めたが,担任以外の大人に対しては礼儀をわきまえることができず,友達や教師とのトラブルを起こさない日は無いという状況であった。他へ不満をぶつけることで,自らのストレスを解消しているかのように見えた。「長かったのか」「短かったのか」と「楽しかったのか」「つまらなかったのか」の対比が,この児童の不安定な精神状態をよく表している。また「思い出に残っていること」と「本当に残ったもの」に気づいて,対比しているところがこの詩の面白さである。全てのことに対し投げやりな態度を見せていたこの児童が,このような決意を詩を通して表明してきたことは,筆者にとって少なからず驚きであった。

 

     秋

        ●・●

 

   秋の香り

   どんなかおり

   本の香り

   どんなかおり

   茶色いにおい

 

   秋の音

   どんなおと

   果物の音

   どんなおと

   鈴虫のよう

 

   秋の楽しみ

   どんなたのしみ

   全部楽しみ

 

 体言止めを用いたり韻を踏ませたりして,言葉のリズムを大事にして書いた詩である。漢字とひらがなの使い分けにも工夫が見られる。連構成にも工夫が見られ,類比と対比の技法を駆使して書いている。〈秋の香り〉を〈本の香り〉とたとえて〈茶色いにおい〉と〈表現したり,〈秋の音〉を〈果物の音〉とたとえ〈鈴虫のよう〉な音と表現したりしている部分は,この児童ならではの表現である。ちなみにこの児童は,短歌と俳句の創作にも意欲的に取り組み,笠間市のコンクールでどちらも代表に選ばれている。

 

 

     冬

        ●・●

 

   冬になる 冬といえば

   卒業式  その前にも

   学力診断テストがある

   冬の後は

   春があって 春といえば

   入学式

   もう冬になる

   目標は段々大きくなっていき

   達成するためには努力がいる

   入学して 中学行っても

   達成するには努力がいる

 

   だから私は 冬が近づいて

   一番したいことは

 

   「努力」である

 

 「冬が来る前にやりたいこと・冬になったらやりたいこと」という課題で日記を書かせたことがあった。この詩はそれを踏まえて書かれたものであると分析する。小学生の場合,やりたいことを具体的なモノに求めることが普通だが,この児童が一番やりたいことは「努力」という抽象的な概念であった。詩としては面白味に欠けるが,新しい考え方・見方を提示する作品として学級全体にこの詩を紹介した。

 

    冬に

         ●・●

 

   冬にやりたいこと

   おいしい鍋を食べる。

   キムチ鍋とかおでん鍋とか

 

   冬までにやりたいこと

   早起き。

   早く起きてマラソンとか歩くとか

 

 この詩も「冬が来る前にやりたいこと・冬になったらやりたいこと」という課題を踏まえて書かれた詩であると分析する。前掲の詩より子どもらしい欲求が素直に表現されている。「冬に」と「冬までに」の微妙な言葉遣いを上手に使い分け,連構成を工夫している。短い詩の中で「とか」の言葉を多用し,リズムをもたせている。

 

 

    春夏秋冬

           ●・●

 

   春はヒラヒラ

   サクラが咲く

   ピンクのキラキラ

   花が咲く

 

   夏は暑くて

   汗びっしょり

   たくさん思い出

   夏休み

 

   秋はほかほか

   さつまいも

   あらそいたくさん

   運動会

 

   冬は寒くて

   大変だ

   ぽかぽかおなべを

   食べあたたまる

 

 内容を春夏秋冬の4連で構成した詩である。全体的に七五調で語調を整え,声に出して読みやすいものになっている。声喩を効果的に使っており,特に〈ヒラヒラ〉と〈キラキラ〉や〈ほかほか〉と〈ぽかぽか〉の類比・対比が効果的である。各連の1行目を見ると,春と秋は〈ヒラヒラ〉と〈ほかほか〉でプラスのイメージを出し,夏と冬は〈暑くて〉と〈寒くて〉でマイナスのイメージを表現するなど対比の技法を上手に活用しているが,全体としてはそれぞれの季節のよいところを短い言葉で表現しているところが,この詩の面白さである。漢字とひらがな・カタカナの使い分けにも工夫が見られる。

 

 

     花

        ●・●

 

   花は 一本生きている

   花びら一本生きている

   花の葉っぱも生きている

   花は花として生きていて

   くきはくきとして

   生きていて

   葉は葉として

   いきてゆく

 

   風がふいても

   雨がふっても

   立ちあがって

   負けないで…。

 

 花の各部分それぞれに生命があるという捉え方が面白く,詩の形式によって新しい見方・考え方を提示する「思想型の詩」であると評価する。言葉のリズムを大事にした分,内容としては面白味に欠ける詩ではあるが,推敲することによってさらに優れた詩になる可能性が感じられる。言葉を精査し題名にも工夫が加われば,いっそう深みのある詩になると思われる。この詩は花の各部分それぞれに向けてのエールを表現したものであり,その負けないで欲しいという願いは,それを見ている自分に向けてのエールにも思えてくる。

 

     文字。

         ●・●

 

 「文字。」

   人から書かれる 文字。

   人から読まれる 文字。

 

 「文字。」

   人の心をキレイにする 文字。

   人の心をよごしていく 文字。

 

 「文字。」

   人の心がかわく 文字。

   人の心がうるむ 文字。

 

 「文字。」

   大切な 文字。

 

「文字」についての概念を詩の形で表現したものである。体言止めを活用し,句点「。」を全ての行に使用することで言葉のリズムを整え,「文字」という言葉を強調している。この詩を書いた児童が草野心平の手法を知っていたかどうかまでは確認しなかったが,あえて句点を用いたところに強い思いを感じる。連構成にも工夫が見られ,類比と対比を効果的に用いている。〈かわく〉の対比として〈うるむ〉という表現を用いたところは,この児童ならではの感性である。起承転結を意識した連構成にすれば,さらに深みのある詩になると思われる。題名にも改善の余地がある。

 

     ありがとう

            ●・●

 

   ありがとうって

   言える人

   ありがとうって

   言えない人

 

   ありがとうと

   言えなくても

   勇気を出して

   言ってみる

 

   ありがとうって言った人も

   ありがとうって言われた人も

   どちらも気持ちが

   よくなる

 

 本学級の児童は,前述したように帰りの会における「今日のありがとう」というコーナーで「ありがとう」の言葉を添えながら友達と感謝の気持ちを伝え合うという活動を継続してきていた。この活動は,筆者の「ありがとうは日本語の中で最も美しいプラスの言葉」であるという信念を踏まえて実施されてきたものであった。この詩は,その経験を通して書かれたものであると分析する。〈ありがとうって言った人も〉〈ありがとうって言われた人も〉〈どちらも気持ちが/よくなる〉という言葉は,日々筆者が強調して児童に伝えていることであり,児童の詩作に指導者の考え方が大きく影響するということに改めて気づかされた。

   

   あ

       ●・●

 

 あの時あの場所で

   出会わなかったら

   今のわたしは

   なにをしているのでしょう

 

 あの時

   出会ったのは

   偶然でしょうか

   それとも、

   必然でしょうか

 

 あの時

 出会ってくれて

   ありがとう

   愛する喜びを

   教えてくれて

 

 ありがとう

 

 この詩の面白いところは,小学生にとっては難しい概念だと思われる〈偶然〉と〈必然〉という抽象的な概念を対比しているところである。「人生には無駄なことなど何一つなく,全ての出会いは偶然のものではなく必然のものである。」は筆者の持論である。そのことをこの児童に話したことがあったかどうかは定かではないが,この児童は出会いを偶然ではなく必然であったと捉えている様子がうかがえる。通常,詩においては後者の方に重きを置くからである。筆者が長い年月を経て獲得したこの哲学に,この児童は小学6年生にして気付き到達しているのである。そのことに驚き,同時に感動を覚えた。

この詩を書いた●・●は前述の「ペンギン」「歌詞の力」を書いた児童である。この児童の「出会い」が何者との出会いなのかは分からない。家族かもしれないし,友達かもしれないし,学校の先生方かもしれないし,筆者かもしれない。ただ好きな歌に影響を受けて書いた詩なのかもしれない。いずれにせよ,ここでこのような詩が生まれたことは決して偶然ではなく,必然のものだったと言える。この児童は様々な出会いを通して不登校を克服し,自分の殻を破って周囲に対する感謝の気持ちを伝えることができた。そしてそれを詩として表現することができた。これは本研究における大きな成果である。想像力を働かせれば,偶然のように思えることにも必ず今までのつながり見出すことができ,そのことを必然であると捉えられるようになるのである。偶然を必然と捉えることのできる背景には,マイナス思考からプラス思考への発想の転換がある。だから,●・●は不登校を解消することができたのである。

 この詩では題名を〈あ〉としているが,題名を〈あ〉としたことの必然性を見出し,それに合わせた形で推敲すれば,さらに優れた詩になるであろうと考える。〈あ〉で必然性を見出せないとしたなら,より必然性を感じさせる題名に変える必要がある。本研究においては,ここまでに紹介してきた詩の題名を振り返ってみても分かるように,題名指導の在り方に課題が見られるが,その解決方法を探る上で,この詩との出会いは有効な手がかりともなった。

余談になるが,●・●の名前が筆者の長女と全く同じであるため,その心を開く上で有効に働いたということも偶然ではなく必然であり,筆者の運営する合気道教室の練習生に納まっているということも偶然ではなく必然であると捉えている。

 以上,本研究で生まれた4種類の児童詩について分析を進めてきた。それぞれについての傾向を整理しておく。

「すずめ」の授業から生まれた詩・触発されて書かれた詩のように視点人物の条件を変えた詩の場合,「想像力(見えないものを見る力)」の発揮を見出しやすい。またそのような詩を書くことを通して,児童は普段気付かない自分の内面に迫ることができる。題名の工夫を考えさせればさらに面白い詩になる可能性がある。

日記を素材とした詩の場合,その課題によって「生活詩」や「たいなあ詩(主体的児童詩)」のような形になることが多い。いずれにせよどちらも児童の心の叫びを引き出すという効果が期待でき,それに想像力が加味されるとより深みのある詩になる。

 自発的に書かれた詩の場合,詩の創作指導の充実に必要な前提が満たされていれば様々なスタイルの詩が表れる。感覚的写生詩,生活詩,主体的児童詩,言葉遊び的な詩などバラエティに富んでいる。また足立悦男が定義する思想型の詩「詩の形式によって新しい見方・考え方を提示する作品」だと思われる詩もいくつか生み出されてきた。

では次節において,思想型の詩を意図的に生み出すための実践「比喩による詩の創作指導」について述べる。本学級では,この実践を通して卒業詩集「巣立ち」を編纂した。

 

第三節 卒業詩集「巣立ち」

本節では,卒業詩集「巣立ち」編纂のために実施した「比喩による詩の創作指導」の授業について述べる。

 卒業詩集を作成してみたいと思ったきっかけの一つは,卯月啓子の実践「卒業詩文集」の製作に触発されたことである。卒業文集というと,テーマが「小学校生活の思い出」とか「中学校に向けての抱負」であることが多く,児童の書く文章が同じようなものになりやすい。そして堅苦しいイメージがあり,個性的な表現が生かされにくい傾向がある。しかし卯月啓子の「卒業詩文集」は自由な雰囲気で華やかさがあり,そこに寄せられている詩はバラエティに富んでいる。また既存の一般的な卒業文集に比べて児童の思いがよく表現されており,読み手も楽しむことができる。このような実践をしてみたいと思ったのが卒業詩集を作ろうと思った動機である。

もう一つのきっかけは,足立悦男の実践「比喩による詩の創作指導」を読み,興味を覚えたことである。足立悦男は卒業詩集の製作を構想するにあたって次のように述べている(13)。

卒業にあたって,将来のことを作文で書く,というのが一般的である。私たちのプランは,将来のことを作文(散文)で書くのではなく,比喩に託して詩で書く,という詩の創作指導案である。将来の夢を作文で書くとなると,とかく概念的な内容になりやすく,個性的な表現を生みにくい。そういう傾向を避けたい,という思いがあった。また,「思い」をものにたとえると,「思い」を具体的なイメージとして伝えやすい,というメリットも考えていた。

 足立悦男はこのように述べ,小学校最後の詩の創作指導単元を構想した。小学校を卒業するにあたって,将来のイメージを「たとえ」(比喩)を使って詩で表現する,という単元である。

比喩は詩の技法の基本であり,思想型の創作指導においても重要な着眼点であるとした足立は,その比喩の力を詩の創作指導にどう生かすかを検証するため,山際鈴子の実践をモデルとした研究を行った。その結果,詩のテーマを比喩で表すと子どもたちの考え方を引き出しやすいことを明らかにし,「比喩による詩の創作指導」が思想型の詩を作り出す一つの有力な詩の創作指導であることを主張した。

 足立悦男の構想した授業案及びモデルとした詩を以下に引用する(14)。

 

   みなさんは,もうすぐ,卒業ですね。

   これから,どんな人になりたいですか。「もの」にたとえて,書いてみましょう。たとえる「もの」の特長を,しっかりとつかんで,自分の「思い」をかさねて,詩の形で書いてみましょう。

   鈴木くんは,絶対にプログラマーになりたい,と思っています。その「思い」を「たけのこ」にたとえて書きました。

 

     たけのこ   6年 鈴木健太郎

 

    ぼくは たけのこのような

   人間になりたい。

   たけのこは 先がとがっていて

   根性が あるように見える。

   いや ほんとうに あるのだ。

   どんな悪条件の中でも

   天をめざして すくすく伸びる。

   人に食べられたり 虫にくわれたりする。

   そのいくつもの難問をのりこえながら。

 

   ぼくもプログラマーの道をはずすことなく

   大きくなっていく。

   たけのこのように

   これからも ずっと

   一つのことをめざし

   そして 大人になっても

   竹のように

   しなったり ゆれたりしながら

   時のながれにさからわずに

   時代を生きぬいていきたい。

 

「プログラマーになりたい」という「思い」と,「たけのこのように生きたい」という「たとえ」が,よく合っていますね。みなさんも,将来なってみたいことを決め,「もの」にたとえて,詩を書いてみましょう。

   詩が書けたら,文集を作って,みんなで読み合いましょう。

 

 この授業案を踏まえ,本研究では本学級の児童の実態を考慮し次の流れで授業を行うこととした。

① 作品「たけのこ」を読んで感想を書く。

② 将来の「なりたいもの」を考える。

③ たとえる「もの」を決める。※なりたいものとたとえる「もの」の例を紹介する。

④ 「くりもただ」を活用しながら詩を書く。

⑤ 比喩を使った創作の感想を書き、友達と交流する。

 この授業を実施するにあたっては次のようなワークシートを活用することとした。

なおこの実践を通して編纂した卒業詩集「巣立ち」は追加資料(別冊)として保管する。

 では次章において本研究の成果と課題をまとめる。

 

【注】第六章

(1)  西郷竹彦編『西郷竹彦授業記録集5 詩の授業』(1991,8,明治図書)。

(2)  笠間市立大原小学校6学年1組「日記指導年間計画」。(末尾資料27頁)

(3) 日本国語教育学会編『国語教育辞典』日記(3.3.8)(武西良和)2001・8,朝倉書店。

(4) 日本国語教育学会編『国語教育総合事典』〈書くこと〉17.日記,日誌(梶村光郎)2011,12,朝倉書店。

(5)  荻野谷毅ほか編『詩集ひばりNo.417』2013(平成25)年,みんなの詩「ひばり」の会。

    茨城県で発行されている児童詩集。県内全域の小中学生から詩の投稿を募って選ばれた作品が掲載されている。平成25年12月現在で420号を数える。

(6)  「詩の技法を活用して詩を書こう」授業資料。(末尾資料28~33頁)

(7)  小森茂ほか編『新しい国語 6下』2010(平成22)年,2,東京書籍。

(8)  平成25年度大原小学校6年1組で生まれた「すずめ」の授業から生まれた詩。(末尾資料34頁)

(9)  (5)に同じ。

(10) (6)に同じ。

(11) 「散文を詩化する」学習指導案。(末尾資料35~40頁)

(12) 「詩日記の指導」(野口芳宏編『感性を磨く詩歌の創作指導』1990(平成2),8,明治図書)。「詩日記の指導」について、野口芳宏は次のように述べている。

詩の指導で一番手軽にできていいのは詩日記の指導です。日記を書かせまして,それに先生がペンを入れる,ということはよくやるんですが,日記というのは実はテーマがしぼれなくて子供のほうはかえって書く意欲がなくなっちゃう。詩日記といいましてね,毎日詩を書かせるんです。それを宿題にするんです。そうするとね,短時間でパッと見られる。私はこの詩日記の実践はずいぶんやりました。これは日記を読むのにくらべてずっと簡単なんです。一日の中で最も強く心に残ったことを一つ書けばいいんですね。(中略)ただしね,それもやがてマンネリになっていくんですよ。だから「一年つづけるぞ」なんていうことは絶対思わない方がいい。とりあえず十日間やってみよう、とりあえず今週やってみよう,もう一週間やってみよう,よし来月一か月続けよう,こういうふうにね,終わりを限定して子供に示すということが非常に大事なことです。(中略)さて,詩日記ですが,「詩を,お手紙の形で書いてみよう」というふうに時には文体をかえてみることですね。「今月の詩はね会話だけで書いてみよう」とか,そうすると新鮮味が出ましてまたおもしろいんです。そういうふうに,観点に変化をつけてやる,こういうことも大切なんですねえ。

(13) 足立悦男「異化の詩教育学―思想型の創作指導」(『島根大学教育学部紀要(教育科学)』第41巻,2007(平成19)年,58~72頁)。

(14) (13)に同じ。

 

 

結章 本研究の成果と課題

 本章ではこれまで論述してきたことを振り返り,その概要を整理しながら本研究の成果と課題について述べる。

 本題に入る前に,まず本研究の全体構想について再確認しておきたい。

第一章「詩と想像力」において,構造図を示しながら本研究の全体構想を明らかにした。構造図は次のようなものであった。

詩の創作指導を充実させるための前提として,筆者は過去の実践の反省をふまえ次のような仮説を立てていた。

・ 詩に親しむ環境があること

・ 詩を読む活動が充実していること

・ 普段から文章を書き慣れていること

「詩に親しむ環境がある」とは,教室内に詩が掲示されていたり,学級文庫に詩集のコーナーが常設されていたりすることで,日常的に詩にふれる機会があるということである。詩に親しむ環境づくりをすれば,児童に詩の言葉・リズム・心にふれさせることができるであろうと考えた。本研究では,これを第一の柱とした。

「詩を読む活動が充実していること」とは,国語の学習の中で詩の授業が充実したものになっているということである。詩を読む(受容する)活動が充実すれば,詩の味わい方を知ることができ,詩人のものの見方や考え方にふれることができるであろうと考えた。本研究ではこれを第二の柱とした。

「普段から文章を書き慣れていること」とは,言葉を紡ぎ出す経験が豊富にあり,文章による表現活動を継続的に行っているということである。「日記指導」を通して文章を書くことに慣れさせていけば,児童は自分の思いを言葉で表現できるようになるであろうと考えた。本研究ではこれを第一の柱と第二の柱の土台になるものと捉えた。

ここまでを整理すると,詩の創作指導を充実させるために必要な前提として「詩の環境づくり」「詩の受容指導」の二本の柱があり,それらを支える基盤となるものに「日記指導」があるということになる。

そこに第三の柱「詩の創作指導」を加えたものが前掲の構造図である。通常,「詩の創作指導」と言えば,詩をつくらせるための方法論のみに目が行きがちであるが,本研究では「詩の創作指導」を単独のものとして捉えなかった。土台である「日記指導」と「詩の環境づくり」「詩の受容指導」「詩の創作指導」の三つの柱それぞれが密接に関わり,それら全てを一体として捉えたものを本研究における「想像力を養う詩の創作指導」とした。この部分は,これまでの「詩の創作指導」の研究にあまり見られなかった視点であり,新しい提案であったと考える。

では「詩の環境づくり」「詩の受容指導」「詩と日記指導」「詩の創作指導」それぞれの実践に関する成果と課題について述べ,本研究を総括する。

 

第一節 詩の環境づくり

第二章「詩の環境づくり」において,卯月啓子の実践は詩の創作指導の原点ではないか,という筆者の考えを述べた。詩に親しむための環境づくりを行い,アンソロジー作り等を通して詩にふれる機会を増やすことは,詩の創作指導を進めるための柱の一つとして欠かせないものだと考えたからである。

しかし課題があった。卯月啓子の「アンソロジーづくり」を忠実に再現することは,教師にとっても児童にとって負担が大きいということであった。そこで本実践では,アンソロジー作りが指導者と児童の負担にならないよう配慮した。そして無理なく詩の環境づくりを進められるように工夫をした。詩の環境づくりは年間を通して継続的に行われなければならないものと考えたからである。

 本実践の成果としては,まず年間を通して継続することができたということが挙げられる。第二章で示したような方法であれば教師や児童の負担も大きくないため,やろうと思う意志さえあれば誰でも取り組むことができる。途中で挫折してしまうことも少ないであろう。

 次に日常的に詩にふれる機会をつくることで,児童の創作活動にもよい影響が与えられたのではないかということが挙げられる。本学級の詩のコーナーには,季節を感じさせる詩やリズムがよく読みやすい詩などが多く掲載されている詩集を精選して置いたため,必然的に掲示される詩もそのようなものが多かった。児童の書いた詩を見ると,季節の移り変わりに関しての発見を書いたものや,言葉のリズムを大切にしようとするものが,比較的多かった。どの児童詩がどの詩の影響を受けているかということを具体的に示すことは難しいが,掲示された詩の形式を真似て書いたと思われるものもいくつか見られた。つまり,詩に親しむ環境づくりを進めることで,児童は詩の言葉・リズム・心にふれることができたのだと考えてよい。これは本実践のねらいに合致したものであり,大きな成果だと言える。

 実践上の課題としては,児童が詩の視写をする時間が確保できなかったということが挙げられる。一学期は毎週取り組もうと努力したが,次第に学校行事等に追われるようになり,教師が掲示された詩を印刷・配付する形になっていった。宿題としてその詩を日記ノートに視写させることも行ったが,宿題や家庭学習との兼ね合いもありやや負担が大きかった。これは教育課程の編成から取り組まなければ改善できない課題であり,学校全体のシステムを変えることも視野に入れなければならない。

 また詩の掲示を日替わりでなく週替わりとしたのは妥当であったと思うが,もっとたくさんの詩に触れさせるべきだったという反省点が残る。教室の掲示スペースの問題もあって,本実践においては常に掲示されている詩が二編だけであったが,詩のコーナーを拡大してより多くの詩を目にする機会を増やすべきであった。

以上、詩の環境づくりにおける成果と課題について述べた。改めて卯月啓子の実践は,詩の環境づくりをするための実践として優れているということが分かった。卯月啓子の実践を参考に詩に親しむための環境づくりを進めることは,詩の創作指導の重要な柱の一つになると考える。ただし誰にでも真似のできる実践ではないと思われるので,一般化するには本実践のように負担を軽減させるための工夫が必要であると考える。

また卯月啓子は詩の技法や形式を教える方法をとらず,詩の世界を児童にまるごと味わわせることによって,自然発生的に詩が生み出されることを期待した。しかし本研究では,そこからさらに一歩進め,これに自分の心を言葉で表現する力,詩を味わう力,詩の技法を活用する力を加えることで,さらによい詩(想像力を発揮した詩)が書けるようになるであろうと仮説を立てたのである。

 では,次節において柱の二つめ「詩の受容指導」の成果と課題について述べる。

 

第二節 詩の受容指導

第三章「詩の受容指導」において,重要視すべき詩の技法を明らかにした。そしてその詩の技法を,西郷竹彦の提唱する詩の授業の方式「展開法」や「層序法」等を用いて理解させ,詩のおもしろさや味わいを捉えさせることを本研究における詩の受容指導と定義した。

本実践では,これらの詩の技法を第五章第二節で述べた「すずめ」の授業や,第六章第一節で述べた「はじめて小鳥がとんだとき」の授業で指導した。また後述する詩の創作指導においても「詩の技法を活用して詩を書こう」「比喩による詩の創作指導」の授業を通して,児童の発達段階に合わせて指導した。このような指導を行うことによって,詩の受容指導は「想像力を養う詩の創作指導」の柱の一つになると考えたのである。

本研究の成果は,まず詩の受容指導において指導すべき詩の技法を明らかにできたということである。そして詩の受容指導の充実を図ることの定義を明確にできたことである。それを踏まえ,西郷竹彦の提唱する「展開法」や「層序法」を活用しながら授業を行うことで,児童は詩の味わい方を知り,詩人のものの見方や考え方に興味をもつことができた。さらに授業で扱った詩の技法は,その後の児童の創作活動に生かされる傾向があることも分かった。第六章第二節で詳述したが,授業で扱った詩の技法を活用して詩を書いている児童が多くいたことから明らかになっている。

 実践上の課題としては,児童の発達段階を踏まえた詩の授業を系統立てて展開することが難しいということが挙げられる。詩の授業は単発的に行われることが多く,長いスパンで詩の創作の力を高めるという概念もないため,前年にどこまで詩の技法を教わってきたかという系統性を考えることは少ない。児童の発達段階を踏まえた詩教材の選定と,系統性を持たせた詩の技法の指導が今後の大きな課題になるであろうと考える。

 また本実践で指導に用いた詩の技法の分類「くりもただ」が妥当であったかどうかも,実践を積み重ねながら再検討していく必要があるだろうと考える。その中でも特に,題名の指導に課題が残されている。本実践から生まれた児童詩は,全体的に見て題名に面白味が無い。詩の受容指導の中で題名の意義を児童に考えさせる活動をもっと取り入れれば,詩を創作する過程で題名の工夫を考える児童が増えたのではないかと推測する。本研究において「題名は詩のゼロ行であり必然性のあるものでなければならない」という概念をもつところまでには至った。それをどのように詩の創作指導に生かしていくかは,授業で扱う詩教材の選定も含めて今後の課題としておきたい。

以上,詩の受容指導における成果と課題を述べた。西郷竹彦の実践を参考にしながら詩の授業を行うことは,詩の受容指導の充実を図るために有効な手段であるということを再認識した。そして詩の受容指導を充実させることが詩の創作指導の柱の一つとなり得るということが明らかになった。

次節では,本研究の土台となる「詩と日記指導」の成果と課題について述べる。

 

第三節 詩と日記指導

第四章「詩と日記指導」において,日記指導は詩の創作指導の充実に必要な前提の一つであり,本研究の土台になるものであると述べた。日記指導を通して,児童が普段から文章を書き慣れていれば,児童は自分の思いを言葉で表現できるようになるであろうと考えたからである。そして,日記指導を継続していく過程で相手意識が芽生えてくれば,書きたい,伝えたいという気持ちが高まるのではないかと予測した。

そして指導対象児童の実態に合わせて「日記指導年間計画」を作成し,それをもとに日記指導を進めた。

 本実践の成果としては,まず学級の39名全員が1年間日記を継続して書くことができたということが挙げられる。学級の全員が1年間継続できたという例は,筆者の18年の教員生活の中でも初めてのことである。これは日記指導を行う目的と意義を明確にできたことと,負担軽減の配慮を行ったこと,教師による赤ペン評語を丁寧に入れるように心がけたことなどが影響していると考えられる。また日記指導を継続することによって,児童の文章による表現力が向上してきた。長い文章を書くことを苦手としていた児童も十行程度まで書けるようになってきた。今まで作文コンクール等で入賞経験のなかった児童が多数入賞するといった事例もあり,この実践の成果の副産物であるかもしれない。

 実践上の課題としては,やはりそれでも意欲に個人差が出るということである。毎日の提出は任意であるため,意欲の高い児童は毎日書くが,そうでない児童は週1回の義務だけ果たせばよいという態度をとっていた。そして日記に意欲的に取り組む児童は詩を書くことにも進んで取り組む傾向があり,日記を義務すなわち宿題として捉えている児童は詩を書くことにも消極的な傾向が見られた。児童の文章で表現する力を高め,詩の創作指導に生かすためには,もっと文章を書くことに慣れる必要があると感じた。もしできるのであれば,毎日の提出を義務化するか,提出は任意だとしても書くことだけは毎日義務づけるか,あるいは学校で隙間の時間を見つけて毎日書かせるか,いずれかの手段を講ずることを視野に入れなければならない。ただし教師と児童の負担は確実に増える。継続するためには,赤ペン評語を書く時間の確保と児童の意欲付けをどのように図っていくかが課題となろう。

また課題を与える形の日記指導の是非も再度問い直さなければならない。既に述べたように,筆者は「課題日記」の定義を採用してこの実践を行ったが,本来の日記の在り方とは異なるものである。無論,学校教育における日記指導は通常認識されているような日記とは異質なものである。がしかし,日記の本来の目的が日々の事実の記録にあるとするならば,本実践の日記指導はそれとはかなりかけ離れたものである。これもまた実践を積み重ねながら,再検討しなければならない課題である。

以上,本研究における日記指導の成果と課題を述べた。日記指導を継続することが詩の創作指導の土台になり得るということが分かった。これまでの筆者の実践では,詩を書ける児童は書けるが書けない児童は全く書けないということがあった。しかし本学級の児童は,一人として書けないという児童はいなかった。これは1年間日記指導を継続することで,文章を書くことに慣れ,自分の気持ちを言葉で表現することへの抵抗が少なくなっていたからだと考察する。

次節では本研究の核とも言える「詩の創作指導」の成果と課題について述べ,本研究を総括する。

 

第四節 詩の創作指導

第五章「詩の創作指導」第一節において,詩の創作指導に「必要な前提」と「必要な条件」について述べた。

そしてこれらの「必要な前提」を満たし「必要な条件」を備えることで,どのような児童詩が生まれるかを分析したいと考え,青木幹勇の実践「すずめ」の授業を再現した。「すずめ」の授業は「必要な条件」の多くを満たしていると考えたからである。そしてさらに,「必要な前提」を満たした場合とそうでない場合の比較をするため,2012(平成24)年度に水戸市立石川小学校6年2組で飛び込みの授業を実施し,2013(平成25)年度に笠間市立大原小学校の6年1組で授業を行った。この実践から生まれて来た児童詩の分析については第五章第二節で前述した通りである。

また第五章第五節において,足立悦男の実践分析をもとに詩の創作指導の在るべき姿について述べた。そして詩の創作指導における方法・留意点を掲げ,「日記を素材とした詩の創作指導」を行った。これは第五章第四節において述べた山際鈴子の「生活を見直す詩の創作指導」の実践を踏まえたものである。この実践からは,第六章第二節で取り上げたような児童詩が生み出された。分析した結果については前述の通りである。

本実践の成果としては,まず学級の39人全てが詩を書けるようになったということが挙げられる。意欲や作品の完成度に個人差はあるものの,一人として書けないという児童は出なかった。これは,詩の創作指導における「必要な前提」を満たし「必要な条件」を整えた授業を行った結果だと思われる。

 また青木幹勇の「すずめ」の授業のように視点人物の条件を換えた詩を書かせる指導法は、児童の想像力を養う上で有効であり,自己内面の造形に迫る効果が期待できることがわかった。児童は「すずめ」をモデルとした鳥の詩の創作に意欲的に取り組み,この授業に触発されて視点人物の条件を換えた詩を自主的に書いてくる児童も現れた。詩の創作指導の入門として優れていると言える。

 さらに日記を素材として詩を書かせる指導を通して,児童が日々の生活を振り返り,その中から発見した感動を自分の言葉で表現することができるようになった。児童の心の叫びを引き出すという効果が期待できることもわかった。

 そして「詩の環境づくり」「詩の受容指導」「日記指導」「詩の創作指導」全ての充実が図られてくると,自発的に詩を書こうとする児童が表れてくることもわかった。その中で感覚的写生詩,生活詩,主体的児童詩,言葉遊び的な詩など様々なスタイルの詩が生まれてきた。また足立悦男の定義する「思想型の詩」だと思われる詩もいくつか生み出されてきた。

実践上の課題としては,三つある。

一つ目は,題名の指導をどのようにしていくかということである。「すずめ」のように視点人物を換えた詩を書かせる場合,鳥の名前が即題名になるなど平凡なものになりやすい。第六章第二節において前述したように,本研究において「題名は詩のゼロ行であり必然性のあるものでなければならない」という概念を指導するところまでには至った。そこからさらに児童が題名の工夫にまで思いを致すようになるためには,どのような詩教材を用いてどのように指導を積み重ねていけばよいのかということについては,本研究では明らかにできなかった。題名の必然性について考えさせるために,題名を読むことに特化した詩の授業の構想を考えていかねばならないと思う。今後の課題としておきたい。

二つ目は,推敲の指導をどのようにしていくかということである。詳しく言うと想像力の発揮があまり見られない作品に対してどのような批評を与え,どのような推敲の視点を与えればよいのかということである。特に日記を素材として書いた詩の場合,自分の生活の様子を振り返って自分の姿をありのままに表現したり,自分の思いを生き生きと表現したりした詩は数多く見られたが,そこに想像力(見えないものを見る力)を働かせて想像の世界を広げた1行なり1連なりを加えると,より面白み・深みが増すであろうと思われる詩も多かった。児童の実態や書かれた詩の形式によって与える推敲の視点は異なってくると思われるが,より適切な推敲の指導の在り方を追究していく必要がある。

三つ目は,「思想型の詩の創作指導」に特化した単元をどのように構想するかということである。本研究において思想型の詩だと思われるものがいくつか生まれているが,それは詩の創作指導における「必要な前提」を満たし「必要な条件」を整えた実践を行ったからだと考えられる。しかしながら,それは意図的に生み出そうとして生まれたものではない。本研究では思想型の詩を書かせるための具体的な指導法については明らかにできなかった。今後,第六章第三節において述べたように,思想型の詩を意図的に生み出すための実践「比喩による詩の創作指導」を実施して,卒業詩集「巣立ち」を編纂する予定であるが,その分析については次の機会となる。

足立悦男は想像力を詩教育における重要な学力と捉え,思想型の詩の創作指導が想像力の育成に有効であるということを主張した。思想型の詩の創作指導の在り方を追究することは、「想像力を養う詩の創作指導」をより確実なものにするために必要なことである。今後さらに研究を深めていきたい。

 

第五節 「生活思想詩」の実現を目指して

本研究の目的は,詩の創作指導を通して児童の想像力を養うことにあった。そして,目指すべき詩の創作指導の在り方を明らかにし,未来の児童詩の在るべき姿を提案することであった。

では未来の児童詩の在るべき姿とはどのようなものなのか振り返ってみたい。弥吉菅一は,未来の児童詩に向けての提案を次のような例えで表現した。第五章第三節において引用した部分を再引用する(1)。

・「生活詩」の「生活」は大地のようなものであった。大地は,すばらしい「児童生活詩」を育ててくれた。だが,ポエジーそのものの品種改良までは無理であった。

・「主体的児童詩」は,そのポエジーの品種改良に尽力し,ひとまず成功することができた。その喜びのあまり急いでそれを蒔いてしまった。それはそれでよいことであったが,その大地の土壌調べや肥料与えのことを軽視し忘れていた。しかも,子どもということさえも忘れていた。

・「現代児童詩」は,その新種のポエジーを大切にし,肥料与えを子どもの成長に応じて与えることを志向し実践した。その種子は喜び芽を出し始めた。ただし,土壌としての生活性のたがやしが,さらに加算されるようになったら,その萌芽はいっそう生き生きとしたものになって伸びていくだろう。

弥吉菅一はこのように述べ,未来の児童詩教育は,感覚的写生詩・生活詩・生活行動詩・主体的児童詩のいずれをも否定することなく,それを受け止めて実践に生かし,その作品化に成功させることが必要であると主張した。これは現代児童詩の抱える課題を解決することにつながる。

この主張を受けて,本研究における詩の創作指導は現代児童詩の先行実践の優れている点を学びながら,感覚的写生詩・生活詩・生活行動詩・主体的児童詩という指導法のスタイルのいずれをも否定することなく,また固執することなく,それぞれの指導法のよい点を見直し必要があれば随時採用していくといった方法をとってきた。

現代児童詩の優れた先行実践として,本研究では山際鈴子の実践を参考にしてきた。山際鈴子は,詩を書くことで子どもの想像力を引き出すことをテーマとし,「生活を見直す詩の創作指導」を実践していく中で,優れた「思想型の詩」を生み出していたからである。本研究のテーマは,児童に書かせたい詩の姿を「日々の生活の中から発見した感動を自分のことばで表現したもの」とし,それを書かせることによって,児童の想像力(見えないものを見る力)を養うことであった。山際鈴子の「生活を見直す」実践を追究することは,本研究のテーマに迫ることであり,弥吉菅一の主張する「土壌としての生活性のたがやし」にもつながるものである。

そこで「生活を見直す詩の創作指導」を通して「思想型の詩」を書かせることを,今後筆者が目指すべき詩の創作指導の在り方と定める。その指導を通して生まれた児童詩を新たに「生活思想詩」と名付け,その分析を進めることを今後の課題とする。

そして「想像力を養う生活思想詩の創作指導」を次の研究テーマとして掲げ,本研究のまとめとしたい。

 

【注】結章

(1) 弥吉菅一編『日本児童詩教育の歴史的研究』1989(平成元)年,2,溪水社。

 

 

あとがき

本研究は,私が1996(平成8)年度から1999(平成11)年度にかけて取り組んだ実践研究「豊かな言語感覚を養う指導の在り方~詩の創作指導を通して~(4年間の継続研究から)」を出発点としていた。そしてその教育実践における反省が,本研究テーマ設定の主要な動機であった。

この4年間の研究を論文としてまとめていく過程で様々な課題が見出された。論文が完成しても,児童作品は依然として玉石混交であり,書ける子は書けるが書けない子は全く書けないという状態に変わりはなかった。詩の創作指導の困難さを改めて痛感した。また玉石混交とは言ってもそれは私の主観によるものであり,客観的な評価ではない。詩の創作指導に関する私の興味は急激に減少し,詩の授業は必然的に読む活動に比重をかけるようになった。

しかしそれでも,現在に至るまで細々と詩を書かせ続けてきた。児童の書いた詩を読んで心の底から感動した経験があり,その思いが忘れられなかったからである。では感動を覚えた詩とはいったいどのようなものだったのか。それは児童の想像力が発揮されていた詩であった。そこで,詩を書くことで身につけさせるべき能力は想像力なのではないかと考えるようになった。

初心を振り返ってみると,私が教員になって初めて手に入れた詩の授業に関する本の中の一つに,畑島喜久生の『今こそ子どもたちに詩を』があった。その中で畑島は〈詩の教育は、教育の中核になりうる。〉と主張していた。新学習指導要領の言語活動例の中に,「詩の創作指導」が明示された今こそ,詩の教育の重要性を再認識しなければならないと感じた。詩の教育を進めて来た一国語教師として,詩の教育が教育の中核となることを信じ,信念をもって詩の指導法の研究にあたらねばならないと思うようになった。

時を経て,2012(平成24)年度より2年間にわたる茨城大学大学院教育学研究科での長期研修の許可をいただいた。修士論文の研究テーマを「想像力を養う詩の創作指導」と定めたのはこうした理由からであった。

 念願の現職派遣としての大学院生活が始まり,先行実践や文献をあたる日々が始まった。そして自分のこれまでの実践を広い視野から振り返る機会を得た。1996(平成8)年度に教員として採用されてから学級担任ひとすじの生活を送ってきた私にとって,それは新鮮で刺激的な毎日であった。

参考文献探しに躍起になっていた頃,担当指導教官の昌子佳広先生より弥吉菅一先生の編著書『日本児童詩教育の歴史的研究』を紹介された。それは茨城大学図書館の書庫奥深くに収められていた。その本は全3巻に及び,序章・結章を含む全11章で構成され総頁数3,000を超える大著であった。一見して名著であることが想像できた。2012(平成24)年10月にその結章を読了した時,全身に鳥肌が立っていた。なぜなら日本の児童詩教育の起源から現在までの変遷をたどることができ,国語教師としての自分の立ち位置を明確にすることができたからである。また若手教員の頃から影響を受けて来た詩の指導法とその実践家の名前・功績及び歴史的な評価などを知ることができ,自分がそれまでの教員生活でどのような詩の指導をしてきたかが明らかになった。そして自分が現在どのような立場にいて,今後どのような実践を積み重ねていくべきかを知ることができたのである。紆余曲折はしてきたものの,自分の進んできた方向性はあながち間違っていなかったことも分かった。目の前の霧が晴れたような思いがした。そして山の頂上の様子が見えるようになってきた。私が選んだ入口は「主体的児童詩(たいなあ詩)」であり,途中「生活詩」や「感覚的写生詩」の道に入り込んだり,元の道に戻ったり道を見失ったりすることもあったが,いざ霧が晴れてみれば,どの道も頂上につながっていたことが分かったのである。これに気づいた時の私の驚きと感動は筆舌に尽くし難い。

本研究をまとめるにあたっては,以下の方々にご指導・ご協力・ご助力をいただいた。終わりにあたりここに記して感謝の意を表したい。

茨城大学教育学部教授昌子佳広先生には,担当指導教官として特に修士論文の執筆に際し,本文の内容や表現面に至るまで懇切・丁寧にご指導いただいた。週に1回,お忙しい中でも都合をつけていただき修士論文の進捗状況を温かく見守ってくださった。昌子先生のご助言が無ければこの研究は成立しなかった。そのことに対し感謝の意は十分に語り尽くせないが,この修士論文の完成をもってその感謝のしるしにかえたいと思う。

 また,茨城大学教育学部国語教育研究室の諸先生方には,研究の内容及び方法などについて様々な面からご指導いただいた。

橋浦洋志先生には,現役学部生の頃からゼミ生としてお世話になり,詩を読んだり書いたりすることの楽しさをご教授いただいた。橋浦先生との出会いがなければ,教師になって詩の指導を志すことも,現職派遣として茨城大学に戻ってくることもなかったと思う。深く感謝の意を表名する。

川嶋秀之先生には,副指導教官として修士論文の進捗状況を確認していただき,研究の内容及び方法についてご指導いただいた。特に「想像力」の定義について重要な示唆を与えていただいた。また論述を進めるための手続きの仕方をご教授いただいた。

岡部千草先生には,同じく副指導教官としてご指導いただいた。特にご自身の実践に基づく日記指導の在り方と詩の創作指導の在り方についてご助言をいただいた。岡部先生の実践に触れなければ,本研究の第四章「詩と日記指導」は成立しなかったと言っても過言ではない。

増子和男先生には,優れた先行実践にあたり先達の功績に感謝をしながら自分なりの研究を創りあげていくことの大切さをご助言いただいた。また漢文を読み味わう楽しさをご教授いただいた。漢文を訓読することは,日本人ならではの言語感覚をつかむことでもあり、詩の創作指導と深い関わりがあることに気づいた。

齋木久美先生には,手で文字を書くことの大切さについてご指導いただいた。現代では文字をワープロで「打つ」ことの方が多くなってきているが,児童に詩を書かせる場合は是非とも手で文字を書かせる機会の一つとしたい。また正しい姿勢と学習指導との関連を見つめ直すきっかけもいただいた。

鈴木一史先生には,文献を「クリティカルに読む」ことの大切さをご指導いただいた。また詩の創作指導と語彙指導の関連を考える上で重要な示唆を与えていただいた。詩の創作指導を進める上で,今後はコーパスを活用することの可能性も探っていきたい。

 水戸市立石川小学校の小林靖校長先生,河西泰典先生には「すずめ」の授業の実践においてご協力をいただいた。6年生が卒業を控えた1月というお忙しい時期に,快く学級をお貸しいただいた。またその仲立ちをしてくれた兄である豊田雅之教諭がいなければ,この実践は実現しなかった。感謝の意を表したい。当時,昌子佳広先生のご子息が本校にご入学されることになっており,以前から関わりがあったということも偶然ではなく必然であったと捉えている。

 茨城大学附属中学校の開田晃央先生,及び粕谷みのりさんと永田望さんには,大学院の同期生としてともに授業の中で議論を交わしたり院生室で語らったりしながら,研究の方向性や進捗状況について情報交換をしてきた。とても楽しい日々であった。また2012(平成24)年度に茨城大学に内地留学をされた先生方との交流を通して得たことも大きかった。一人で研究を進めることは難しい。仲間がいるから最後まであきらめずに取り組むことができたのである。そのことに改めて感謝を申し上げたい。

 そして先にも述べたように,本研究は2012(平成24)年度及び2013(平成25)年度の2箇年間にわたる茨城大学大学院教育学研究科での長期研修の機会を得たことにより,形をなしたものである。このような機会を与えてくださった茨城県教育委員会,水戸教育事務所,笠間市教育委員会に対し厚く御礼を申し上げる。そして特に,笠間市教育委員会教育長飯島勇先生には研究の方向性を定める上で多大なるご助言をいただいた。またこの長期研修は,笠間市立大原小学校の栗原範子前校長先生,佐川雅美校長先生,飯村稔前教頭先生,髙安正浩教頭先生をはじめ,諸先生方,職員の皆様のご厚情によるものであった。特に2013(平成25)年度は,毎週1回私の留守中に学級を預かってくれた椎名博教務主任及び大月彩子講師には大変お世話になった。

 以上の方々に対して,深く感謝申し上げる。

日本の児童詩教育を進め,発展・継承してきた先達にも感謝の意を表明しておきたい。

日本児童詩の源流とも言える「児童自由詩(感覚的写生詩)」を創案した北原白秋,「生活詩」を提唱した稲村謙一,生活詩を発展させた「生活行動詩」の指導を進めた妹尾輝雄・

吉田瑞穂,「主体的児童詩(たいなあ詩)」の指導を提唱した松本利昭,主体的児童詩を発展的に継承した「現代児童詩」の実践家山際鈴子・畑島喜久生、「すずめ」の授業を創案した青木幹勇,「詩の授業の理論と方法」を明らかにした西郷竹彦,「アンソロジー(名詩選)づくり」を実践した卯月啓子など,児童詩教育に力を尽くしてきた指導者たちの全てに感謝をしたい。

 また本研究の論述を進める際に何度も引用した足立悦男先生の存在も忘れてはならない。西郷竹彦と山際鈴子の実践について研究を進めてきた足立先生の論文「異化の詩教育学」に出会わなければ,本研究の各章を整理してまとめることは不可能であった。足立悦男先生が昌子佳広先生の恩師であったということも,私には幸いした。これらの出会いは決して偶然のものではなく,必然のものであると信ずる。蛇足かもしれないが,足立悦男先生が西郷竹彦の前で実践したという「草」の授業が福岡県小郡市立●●小学校で行われていたということも,この出会いの妙を感じさせるものである。この出会いにも感謝を申し上げたい。

最後に,本研究の流れを振り返りながら,今後目指すべき児童詩教育の姿について提言しておきたい。

本研究のテーマ「想像力を養う詩の創作指導」は,「日記指導」を土台とし「詩の環境づくり」「詩の受容指導」「詩の創作指導」を三本の柱として構想した。研究の目的は,詩を書かせることによって,児童の想像力(見えないものを見る力)を養うことであった。児童に書かせたい詩の姿は「日々の生活の中から発見した感動を自分の言葉で表現したもの」と定めた。そして現代児童詩の先行実践の優れている点を学びながら,感覚的写生詩・生活詩・生活行動詩・主体的児童詩という指導法のスタイルのいずれをも否定することなく,また固執することなく,それぞれの指導法のよい点を見直し必要があれば随時採用していくといった方法をとってきた。その過程で様々な児童詩が生み出された。現代児童詩の優れた先行実践としては,山際鈴子の実践を参考にした。山際鈴子は,詩を書くことで子どもの想像力を引き出すことをテーマとし,「生活を見直す詩の創作指導」を実践していく中で,足立悦男の定義する「思想型の詩」を生み出していたからである。「思想型の詩」とは詩の形式によって新しい見方・考え方を提示する作品のことであり,「思想型の詩の創作指導」は想像力を養う詩の創作指導として有力な方法である。そこで「生活を見直す詩の創作指導」を通して「思想型の詩」を書かせることを,今後筆者が目指すべき詩の創作指導の在り方と定めた。そしてそのような指導を通して生まれた児童詩を「生活思想詩」と名付けることとした。

本研究の結章において,筆者は「生活思想詩」という新たな児童詩の姿を提唱した。その分析を進めることを今後の課題としたい。そして「想像力を養う生活思想詩の創作指導」を次の研究テーマとして掲げ,本研究を発展・継承していくことの決意を表明し本書のむすびとする。

  2014(平成26)年1月

  2015(平成27)年1月 ネット掲載用横書き版として改訂  豊田龍彦  

 

【参考・引用文献一覧】(執筆者名・著者名50音順)

・青木幹勇編『子どもが甦る詩と作文』1996(平成8),10,国土社

・足立悦男「異化の詩教育学―実践個体史研究」(『島根大学教育学部紀要(教育科学)』第33巻,1999(平成11)年,1~30頁)

・足立悦男「異化の詩教育学―教材編成の理論と方法」(『島根大学教育学部紀要(教育科学)』第34巻,2000(平成12)年,1~18頁)

・足立悦男「異化の詩教育学―存在型の受容指導」(『島根大学教育学部紀要(教育科学)』第35巻,2001(平成13)年,1~21頁)

・足立悦男「異化の詩教育学―思想型の受容指導」(『島根大学教育学部紀要(教育科学)』第36巻,2002(平成14)年,1~20頁)

・足立悦男「異化の詩教育学―時間型の受容指導」(『島根大学教育学部紀要(教育科学)』第37巻,2003(平成15)年,1~17頁)

・足立悦男「異化の詩教育学―空間型の受容指導」(『島根大学教育学部紀要(教育科学)』第38巻,2004(平成16)年,36~53頁)

・足立悦男「異化の詩教育学―ことば型の受容指導」(『島根大学教育学部紀要(教育科学)』第39巻,2006(平成18)年,26~37頁)

・足立悦男「異化の詩教育学―存在型の創作指導」(『島根大学教育学部紀要(教育科学)』第40巻,2006(平成18)年,12~27頁)

・足立悦男「異化の詩教育学―思想型の創作指導」(『島根大学教育学部紀要(教育科学)』第41巻,2007(平成19)年,58~72頁)

・足立悦男「異化の詩教育学―時間型の創作指導」(『島根大学教育学部紀要(教育科学)』第42巻,2008(平成20)年,22~33頁)

・足立悦男「異化の詩教育学―空間型の創作指導」(『島根大学教育学部紀要(教育科学)』第43巻,2009(平成21)年,36~53頁)

・足立悦男「異化の詩教育学―ことば型の受容指導」(『島根大学教育学部紀要(教育科学)』第44巻,2010(平成22)年,9~27頁)

・石田佐久馬編『教科書にでてくる詩や文のよみかたつくりかた・詩を読もう』1993(平成5),4,ポプラ社

・市毛勝雄編『文学的文章で何を教えるか』1983(昭和58),8,明治図書

・卯月啓子編『教室に広がる詩の世界』1996(平成8),3,東洋館出版社

・S・I・ハヤカワ編『思考と行動における言語』1985(昭和60),2,岩波書店

・大内善一編『国語科授業改革への実践的提言』2012(平成24),2,溪水社

・荻野谷毅ほか編『詩集ひばりNo.417』2013(平成25)年,みんなの詩「ひばり」の会

・春日由香「対話で言葉の世界を広げる児童詩創作指導―「題名」の指導を中心にして―」(『国語科教育』第69巻,2011(平成23)年,67~74頁)

・加藤周一ほか編『中学国語1伝え合う言葉』2012(平成24)年,1,教育出版

・国語教育を学ぶ会編『詩の授業』1988(昭和63),6,国土社

・国語教育を学ぶ会編『「にほんご」の授業』1989(平成元),6,国土社

・児玉忠,大阪児童詩の会編『見つめる力・発見する力を育てる児童詩の授業―山際鈴子の授業を追って―』2011(平成23),8,銀の鈴社

・小林信次編『子どもといっしょに読みたい詩』1992(平成4),7,あゆみ出版

・小森茂ほか編『新しい国語1上~6下』2010(平成22)年,2,東京書籍

・西郷竹彦編『詩の授業(西郷竹彦授業記録集⑤)』1991(平成3),8,明治図書

・西郷竹彦編『法則化批判』1989(平成元),5,黎明書房

・西郷竹彦編『続・法則化批判』1989(平成元),8,黎明書房

・西郷竹彦編『詩の授業・理論と方法(1998版)』1998(平成10),6,明治図書

・西郷竹彦編『詩の授業・理論と方法(1981版)』1981(昭和56),明治図書

・西郷竹彦編『詩の授業・小学校低学年』1998(平成10),6,明治図書

・西郷竹彦編『詩の授業・小学校中学年』1998(平成10),6,明治図書

・西郷竹彦編『詩の授業・小学校高学年』1998(平成10),6,明治図書

・西郷竹彦編『詩の授業・中学校』1998(平成10),6,明治図書

・西郷竹彦編『文芸教育97・2012春』2012(平成24),4,新読書社

・渋谷孝編『現代国語教育論集成・斉藤喜博』1987(昭和62),6,明治図書

・嶋岡晨編『詩のたのしさ』1977(昭和52),8,講談社現代新書

・ジェイムズ・リーヴズ編『詩がわかる本』1993(平成5),1,思潮社

・畑島喜久生編『いまこそ子どもたちに詩を』1995(平成7),5,国土社

・高橋俊三編『詩の群読指導・細案』1996(平成8),7,明治図書

・辻井喬編『詩が生まれるとき』1994(平成6),3,講談社現代新書

・日本作文の会編『5年生の詩の教室』1976(昭和51),11,あすなろ書房

・日本作文の会編『やさしい詩5年生』1994(平成6),8,百合出版

・野口芳宏編『感性を磨く詩歌の創作指導』1990(平成2),8,明治図書

・松本利昭編『たのしい詩のかきかた「たいなあ方式」』1964(昭和39),7,少年写真新聞社

・橋本暢夫編『大村はま「国語教室」の創造性』2009(平成21),4,溪水社

・水内喜久雄編『教室で読みたい詩12か月5・6年』1995(平成7),3,民衆社

・水内喜久雄編『教室で読みたい詩12か月3・4年』1995(平成7),3,民衆社

・水内喜久雄編『子どもとよみたい 輝け!いのちの詩』1996(平成8),8,小学館

・宮地裕ほか編『国語1上 かざぐるま~6 創造』2011(平成23)年,2,光村図書

・向山洋一編『向山型国語教え方教室7‐8月号』2002(平成14),8,明治図書

・望月善次編『論争・詩の解釈と授業』1992(平成4),12,明治図書

・森川正樹編『クラス全員が喜んで書く日記指導』2011(平成23)年,9,明治図書

・文部科学省編『小学校学習指導要領解説国語編』2008(平成20)年,8,東洋館出版社

・山際鈴子編『かぎりなく子どもの心に近づきたくて』1990(平成2),12,教育出版センター

・山際鈴子編『かぎりなく子どもの心に近づきたくてパートⅡ』1995(平成7),3,教育出版センター

・山際鈴子編『児童詩の世界―詩を教えてくれた子どもたち―』1977(昭和52),8,くろしお出版

・弥吉菅一編『日本児童詩教育の歴史的研究』1989(平成元)年,2,溪水社

・吉田瑞穂編『小學生・詩の導き方』1950(昭和25),12,西荻書店

 

 < 2015.1追記 >

本研究を,

 生きる勇気を与えてくれた 長女   さくら

 生きる元気を与えてくれた 次女   まどか

 生きる喜びを与えてくれた 三女   双葉

 生きる希望を与えてくれた 長男  暁彦 (2016年11月3日追記)

 生きる意味を教えてくれた 最愛の妻 麻子

 生きる資格を与えてくれた 今は亡き 前妻 町子

 そして,詩を愛する全ての教育者に捧ぐ。

 

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